太陽同伴現代城市民謡演唱組

提供:Chinese Rock Database
太陽同伴楽隊から転送)
ナビゲーションに移動検索に移動
太陽同伴現代城市民謡演唱組
Taiyangtongban 12.jpg
左から:周紫峰・印悦・崔駿・鄭南・王蘭・葉亏夫。(写真提供:周紫峰
基本情報
中国語名(簡体字) 太阳同伴现代城市民谣演唱组
中国語名(繁体字) 太陽同伴現代城市民謠演唱組
拼音 Taiyangtongban Xiandaichengshi Minyaoyanchangzu
発音転記 タイヤントォンバヌ シエヌダイチョンシ ミヌヤオイェヌチャンズゥ
別名 太陽同伴演唱組、太陽同伴
出身地 上海市
ジャンル ポップポップロックシティーフォーク
活動期間 再見創作組:1985年 - 1987年4月
太陽同伴:1987年4月 - 1990年5月
影響 Bob Dylan・John Lennon・Carpenters・The Beatles・羅大佑・斉秦
メンバー 葉亏夫
王蘭
崔駿
周紫峰
鄭南
印悦
1990年4月16日、上海師範大学でのライブ前の練習風景。(写真提供:周紫峰

太陽同伴現代城市民謡演唱組(タイヤントォンバヌ シエヌダイチョンシ ミヌヤオイェヌチャンズゥ、Taiyangtongban Xiandaichengshi Minyaoyanchangzu)は、1980年代後半、上海市で活動していたバンド。本来は太陽同伴楽隊と呼ばれる。

メンバー

過去に在籍したメンバー

マネージャー

  • 黄石 マネージャー(1988年 - 1990年5月) -- 新聞『上海文化芸術報』の記者。

経歴

当初は再見創作組という名前で、葉亏夫作曲張広天作詞を行なうスタイルを取っていた。それ以外のメンバーはいろいろと交代となっている。バンドと言っても、詩を読んだり、ロックを演奏したり、フォークを演奏したり、当時入手や聴くことができた本や音楽によって変化していた。創作した曲は、理想主義的な子供っぽい曲(誕生日のお祝いの歌など)から、社会現実を見つめた曲(スペースシャトル・チャレンジャー乗組員に捧げる歌など)まで、幅広かった。音楽は簡単で、きれいなメロディで、歌詞も分かり易いものにしたが、パワーに欠けていたが、そのパワーを追求する事もなかった。

初ライブを行なった後、張広天が反動者の疑いで公安の取り調べを受け、1986年秋から、江蘇省塩城市大豊県の労教農場に送り込まれてしまい、バンド活動を長期に渡って休止せざるを得なくなった。

やがて上海現代人劇社創始者の曹小磊が「生命激情」・「太阳同伴」・「勃拉姆斯」などの歌詞5曲を創作した。作曲は葉亏夫が手掛け、最終的に再見創作組として6曲ほど作品が誕生した。

1987年4月、創作曲の1つである「太阳同伴」(太陽同伴)を再見創作組の新しいバンド名とした。練習は田林十二村85号で葉亏夫の家で行なった。

ラジオや大学、体育館などでライブを行なった時は、オリジナル曲ばかりを演奏していた。

バンドとしてはこれから頑張っていく必要があったが、リーダーの葉亏夫が1988年7月から1989年7月まで、肺結核の治療で隔離・入院してしまい、バンドは活動が停滞することになった。

1989年、復旦大学上海交通大学でライブを行なった。ボーカルは複数の人が担当していた。このどちらかのライブで演奏した曲は、「嫁给美国人的姑娘」・「科科的等待」・「勃拉姆斯」・「遥想」など、オリジナル曲である。バンド名は、当初の太陽同伴現代城市民謡演唱組より、太陽同伴楽隊と名乗るほうが自然な楽器編成であったが、メディアでは「楽隊」の文字が使えなかったため、ずっと演唱組と呼ばれていた。

やがて、ラジオの番組『星期広播音楽会』でライブの様子が放送されたが、張広天は労教農場でそのラジオ番組を聴いていた。

張広天がバンドに復帰してから間もなくして、アルバム発売の話が持ち上がり、上海音像公司のスタジオでレコーディングしたが、結局発売には至らなかった。

1989年7月、葉亏夫が復帰したが、主要メンバーである葉亏夫張広天の音楽スタイルも変化した。ただ、結成当初のメンバーが脱退してしまったこともあり、翌年まで活動休止となる。

1999年4月16日に久しぶりにライブを行なった。5月、新開発 - '90上海現代演唱組首展への出演の話があった。葉亏夫は、バンド名が他のバンドと比べてとても素朴と感じたため、外れたギターサウンドのようなイメージのする重い響きのイメージを持つ、重点工程楽隊と改名した。

主要なライブ・コンサート