「王瀾」の版間の差分

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== 経歴 ==
 
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=== 生い立ち ===
  
 
父親は国家一級指揮者で、母親が国家一級歌手という、音楽家庭であった。7歳から美術を勉強していたが、両親の仕事の縁故により、13歳の時から、花盆鼓・板鼓・排鼓などの民族[[パーカッション]]を学び始める。のち、JIMI HENDRIXとJAMES BROWNの影響を受け、自分のスタイルを形成していった。16歳の時から、小軍鼓を学び始める。間もなく学び始めた[[ドラム]]は、独学で覚えていった。1992年、中華全国総工会文工団に入って演奏員となり、各地でコンサートを行なう。そこでライブの感覚と経験を積んでいった。
 
父親は国家一級指揮者で、母親が国家一級歌手という、音楽家庭であった。7歳から美術を勉強していたが、両親の仕事の縁故により、13歳の時から、花盆鼓・板鼓・排鼓などの民族[[パーカッション]]を学び始める。のち、JIMI HENDRIXとJAMES BROWNの影響を受け、自分のスタイルを形成していった。16歳の時から、小軍鼓を学び始める。間もなく学び始めた[[ドラム]]は、独学で覚えていった。1992年、中華全国総工会文工団に入って演奏員となり、各地でコンサートを行なう。そこでライブの感覚と経験を積んでいった。
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==== 超載楽隊への加入から中国を代表するドラマーへ ===
  
 
1993年5月、19歳の時に[[スラッシュメタル]]バンド・[[超載楽隊]]のメンバーとなり、同年、[[蘇珊娜夜総会]]で最初のライブを行なう。彼にとって生涯忘れない舞台となった。
 
1993年5月、19歳の時に[[スラッシュメタル]]バンド・[[超載楽隊]]のメンバーとなり、同年、[[蘇珊娜夜総会]]で最初のライブを行なう。彼にとって生涯忘れない舞台となった。
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2000年4月には、シンバル・[[Zildjian]]の[[エンドーサー]]となる。9月には、ドラム・[[Ludwig]]の中国唯一の[[エンドーサー]]となる。
 
2000年4月には、シンバル・[[Zildjian]]の[[エンドーサー]]となる。9月には、ドラム・[[Ludwig]]の中国唯一の[[エンドーサー]]となる。
 
彼の履歴からも分かるとおり、ひとつのバンドには所属していない。それは、彼の技術を求める人が多く存在することの現れでもある。彼が[[超載楽隊]]に加入してロック界に飛びこんで以来、いまだに彼を越えるドラマーは中国には存在しない。
 
  
 
2001年5月、ドラムスティック・[[PRO-MARK]]の中国唯一の[[エンドーサー]]となる。また同年、[[郭智音楽教室]]や[[華偉音楽学校]]でドラムの講師を務めるようになった。同年末には、[[單小帆]]・[[劉峰]]と共にドラム教室を開いた。
 
2001年5月、ドラムスティック・[[PRO-MARK]]の中国唯一の[[エンドーサー]]となる。また同年、[[郭智音楽教室]]や[[華偉音楽学校]]でドラムの講師を務めるようになった。同年末には、[[單小帆]]・[[劉峰]]と共にドラム教室を開いた。
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2002年3月17日から、[[日本]]で行なわれた「日中国交正常化30周年、音楽文化交流」に参加した。
 
2002年3月17日から、[[日本]]で行なわれた「日中国交正常化30周年、音楽文化交流」に参加した。
  
2003年5月、[[痩人楽隊]]を脱退した。同年、[[艶楽隊]]を結成した。同年半ば、[[超載楽隊]]を脱退した。
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=== オリジナルの音楽を目指して ===
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彼の履歴からも分かるとおり、ひとつのバンドには所属していない。それは、彼の技術を求める人が多く存在することの現れでもある。彼が[[超載楽隊]]に加入してロック界に飛びこんで以来、いまだに彼を越えるドラマーは中国には存在しない。やがて、ただのドラマーではなく、自分で創作したオリジナルの音楽を表現する場所を求めるようになっていった。[[痩人楽隊]]では彼の作曲した曲を演奏していたが、王瀾が中心として動いているバンドではなかった。
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2003年5月になり、[[痩人楽隊]]を脱退した。同年半ば、[[超載楽隊]]を脱退した。王瀾はメインの2つのバンドを脱退するのとほぼ同時に、新たに[[艶楽隊]]を結成した。この艶楽隊は、自らの音楽を表現するために生まれたバンドといっても過言ではなかった。
  
2006年、[[藍楽隊]]を結成した。
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2006年には王瀾をリーダーとするバンド・[[藍楽隊]]が結成となった。
  
2007年、[[瀾办得楽隊]]を結成した。
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2007年、[[藍楽隊]]は[[瀾办得楽隊]]に発展解消した。
  
 
== ディスコグラフィー ==
 
== ディスコグラフィー ==

2010年6月27日 (日) 07:01時点における版

痩人楽隊の1stアルバムのために撮影。

王瀾(ワン ラヌ、Wang Lan、1974年1月7日-)は、北京市出身のドラマー漢民族。中国を代表するドラマーの1人として名前が知れ渡っている。

経歴

生い立ち

父親は国家一級指揮者で、母親が国家一級歌手という、音楽家庭であった。7歳から美術を勉強していたが、両親の仕事の縁故により、13歳の時から、花盆鼓・板鼓・排鼓などの民族パーカッションを学び始める。のち、JIMI HENDRIXとJAMES BROWNの影響を受け、自分のスタイルを形成していった。16歳の時から、小軍鼓を学び始める。間もなく学び始めたドラムは、独学で覚えていった。1992年、中華全国総工会文工団に入って演奏員となり、各地でコンサートを行なう。そこでライブの感覚と経験を積んでいった。

= 超載楽隊への加入から中国を代表するドラマーへ 

1993年5月、19歳の時にスラッシュメタルバンド・超載楽隊のメンバーとなり、同年、蘇珊娜夜総会で最初のライブを行なう。彼にとって生涯忘れない舞台となった。

1994年6月、竇唯のバックバンドの一員として、香港に赴き、イギリスのRadio Headと同じ舞台に立つ。同年末に再び竇唯のバックバンドの一員として香港に赴き、張楚何勇唐朝楽隊とともに、「中国揺滾楽勢力コンサート」に参加した。

1995年初には周韧&紅燒肉楽隊に加わる。

1997年3月、許巍のバックバンドの一員となり、長安西安等で多くのライブをこなした。6月、戴秦らと共に痩人楽隊を結成する。同年末には、ラジオ・北京音楽台の年度最優秀ドラマーの栄誉に輝く。

1998年から、痩人楽隊超載楽隊張楚許巍の4バンドでドラムを叩く生活になる。北京のライブハウスKEEP IN TOUCH保持聯絡)で行なわれた張炬追悼ライブでは、5つのバンドでドラムを叩いた。同年末、崔健のバンドでドラムを叩き、蘭州南昌成都等でのコンサートに参加した。

1999年、鄭鈞上海コンサートでドラムを叩いた。

2000年4月には、シンバル・Zildjianエンドーサーとなる。9月には、ドラム・Ludwigの中国唯一のエンドーサーとなる。

2001年5月、ドラムスティック・PRO-MARKの中国唯一のエンドーサーとなる。また同年、郭智音楽教室華偉音楽学校でドラムの講師を務めるようになった。同年末には、單小帆劉峰と共にドラム教室を開いた。

2002年3月17日から、日本で行なわれた「日中国交正常化30周年、音楽文化交流」に参加した。

オリジナルの音楽を目指して 

彼の履歴からも分かるとおり、ひとつのバンドには所属していない。それは、彼の技術を求める人が多く存在することの現れでもある。彼が超載楽隊に加入してロック界に飛びこんで以来、いまだに彼を越えるドラマーは中国には存在しない。やがて、ただのドラマーではなく、自分で創作したオリジナルの音楽を表現する場所を求めるようになっていった。痩人楽隊では彼の作曲した曲を演奏していたが、王瀾が中心として動いているバンドではなかった。

2003年5月になり、痩人楽隊を脱退した。同年半ば、超載楽隊を脱退した。王瀾はメインの2つのバンドを脱退するのとほぼ同時に、新たに艶楽隊を結成した。この艶楽隊は、自らの音楽を表現するために生まれたバンドといっても過言ではなかった。

2006年には王瀾をリーダーとするバンド・藍楽隊が結成となった。

2007年、藍楽隊瀾办得楽隊に発展解消した。

ディスコグラフィー

ソロ発表曲 

曲名アルバム名発表年備考
(曲名不明)鼓舞飛揚2008/9▼DVD▽2007年11月25日、「2007年第1届鼓手中国.鼓吧鼓友会」より
(曲名不明)鼓舞飛揚2008/9▼DVD▽2007年11月25日、「2007年第1届鼓手中国.鼓吧鼓友会」より
Jam貝斯夜2008/9クレジットは李劍與王瀾▼DVD▽2007年6月24日、「第1届Bass Night」より
Jam貝斯夜2008/9クレジットは王學科與王瀾▼DVD▽2007年6月24日、「第1届Bass Night」より

参加アルバム 

テンプレート:Participation List 100

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考
VCD2005年10月20日“第一届中国国際鼓手節”現代楽手 第28期2005/11ドラム

主要なライブ・コンサート

外部リンク