「惱火練習楽隊」の版間の差分

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*'''傅儉倫''' [[ベース]](1991年半ば? - ?) -- 大学ツアーの前に徐衛文と2人で五角場のバーで演奏していたことがある。
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*'''胡鴻俊'''(篤篤) [[ドラム]] & [[ボーカル]](1990年 - 1991年前半) -- [[上海城建職業学院]]の学生。
 
*'''傑夫''' [[ベース]](1991年前半 - 1991年前半?) -- [[アメリカ人]]留学生。真面目で、練習のミスを記録したり、外国のバンドの映像をみんなに見せていろいろなスタイルのバンドを紹介していたが、演奏はいまひとつで短期間で脱退。
 
*'''傑夫''' [[ベース]](1991年前半 - 1991年前半?) -- [[アメリカ人]]留学生。真面目で、練習のミスを記録したり、外国のバンドの映像をみんなに見せていろいろなスタイルのバンドを紹介していたが、演奏はいまひとつで短期間で脱退。
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*'''安徳''' [[ギター]](1991年9月 - 1992年夏) -- [[ドイツ人]]留学生。帰国後はハンドクラフトで[[ギター]]を手掛けている。
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*'''斯蒂恩'''(Andreas Steen) [[ドラム]](1990年9月 - 1992年夏) -- [[ドイツ人]]留学生。[[ドイツ]]でジャズバンド・Cat Walkを結成していた。一度帰国後、再度[[上海市]]に戻り[[上海音楽学院]]で博士課程を専攻後、[[デンマーク]]のAarhus Universitetの東アジア学部の中国研究の教授となった。著作には『摇滚音乐的长征:流行与摇滚音乐在中国』(1996年、ドイツ語)など。
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*'''尼尓斯''' [[キーボード]](1991年9月 - 1992年夏) -- [[ドイツ人]]留学生。帰国後は医者となった。
  
 
== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
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1990年、[[同済大学]]の学生であった羅文輝は[[上海交通大学付属中学]]時代の同級生である徐衛文と胡鴻俊に会いに行ったところ、徐衛文は2人にバンド結成を持ちかけた。元々この3人は[[ギター]]愛好家で、いつも一緒に[[ギター]]を片手に歌を歌っていたためである。3人は意気投合し、他に2人のメンバーを招集してバンドを結成した。最初は胡鴻俊が借りた赤峰路の部屋で練習していた。ただ、[[アコースティックギター]]しかなく、[[エレクトリックギター]]や[[ドラム]]などの設備がないのが難点であったが、お金も無かった。そこで兪征が[[復旦大学]]に行き、美声牌の[[エレクトリックギター]]2本・美声牌の[[エレクトリックベース]]1本・[[ドラム]]セットを借りてきた。美声牌は上海生産の[[ギター]]で非常に重く、とても扱いづらく、音もきちんと出ないが、仕方がなかった。結成当初はPaul SimonやThe Beatlesを練習していた。9月、[[同済大学]]で行なわれた留学生の誕生会に参加した時、[[ドイツ人]]留学生の斯蒂恩と知り合いになり、彼がバンドに加入した。それからは彼から楽器や練習方法を教わるなど、バンドにとってプラスとなった。ただ、斯蒂恩が加入してから初の練習の時、[[ドラム]]の脚が折れるなど、1、楽器の質が非常に悪かったほか、2、固定の練習場所が無いなど、練習に際してこの2つの問題に関してとても頭を悩ませていたため、それをそのままバンド名「惱火練習」とした。12月5日、初ライブを行なったが、The Beatlesの真似をして、スーツや革靴、ネクタイ、サングラスを付けて、統一感を出して舞台に立った。斯蒂恩のドラムスティックの音に合わせ、一斉にサングラスを取ってポケットにしまうなど、斯蒂恩のアドバイスでちょっとした小細工をして、演奏を開始した。観客の留学生は興奮して踊りだすなど、大好評を博し、アンコールがあったが、演奏できる曲をすべて演奏してしまったため、同じ曲を再度繰り返した。この時、何人かのミュージシャンが観客として来ていたことから、[[上海市]]のアンダーグラウンド界に彼らの名前が知れ渡るようになった。
 
1990年、[[同済大学]]の学生であった羅文輝は[[上海交通大学付属中学]]時代の同級生である徐衛文と胡鴻俊に会いに行ったところ、徐衛文は2人にバンド結成を持ちかけた。元々この3人は[[ギター]]愛好家で、いつも一緒に[[ギター]]を片手に歌を歌っていたためである。3人は意気投合し、他に2人のメンバーを招集してバンドを結成した。最初は胡鴻俊が借りた赤峰路の部屋で練習していた。ただ、[[アコースティックギター]]しかなく、[[エレクトリックギター]]や[[ドラム]]などの設備がないのが難点であったが、お金も無かった。そこで兪征が[[復旦大学]]に行き、美声牌の[[エレクトリックギター]]2本・美声牌の[[エレクトリックベース]]1本・[[ドラム]]セットを借りてきた。美声牌は上海生産の[[ギター]]で非常に重く、とても扱いづらく、音もきちんと出ないが、仕方がなかった。結成当初はPaul SimonやThe Beatlesを練習していた。9月、[[同済大学]]で行なわれた留学生の誕生会に参加した時、[[ドイツ人]]留学生の斯蒂恩と知り合いになり、彼がバンドに加入した。それからは彼から楽器や練習方法を教わるなど、バンドにとってプラスとなった。ただ、斯蒂恩が加入してから初の練習の時、[[ドラム]]の脚が折れるなど、1、楽器の質が非常に悪かったほか、2、固定の練習場所が無いなど、練習に際してこの2つの問題に関してとても頭を悩ませていたため、それをそのままバンド名「惱火練習」とした。12月5日、初ライブを行なったが、The Beatlesの真似をして、スーツや革靴、ネクタイ、サングラスを付けて、統一感を出して舞台に立った。斯蒂恩のドラムスティックの音に合わせ、一斉にサングラスを取ってポケットにしまうなど、斯蒂恩のアドバイスでちょっとした小細工をして、演奏を開始した。観客の留学生は興奮して踊りだすなど、大好評を博し、アンコールがあったが、演奏できる曲をすべて演奏してしまったため、同じ曲を再度繰り返した。この時、何人かのミュージシャンが観客として来ていたことから、[[上海市]]のアンダーグラウンド界に彼らの名前が知れ渡るようになった。
  
1990年末から1991年7月にかけて、いろいろな大学ツアーを行なったが、一切の報酬は無く、楽器やメンバーの送迎と学食・ビールだけであった。この間、メンバー交代が相次いだ。7月、赤峰路の練習場所が取り壊しとなってしまい、練習場所を失った。9月、2人のドイツ人が加入し、中国人3名とドイツ人3名による6人へんせいとなった
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1990年末から1991年7月にかけて、いろいろな大学ツアーを行なったが、一切の報酬は無く、楽器やメンバーの送迎と学食・ビールだけであった。この間、メンバー交代が相次いだ。1月には、斯蒂恩がオリジナルドラムセットを購入してきた。7月、赤峰路の練習場所が取り壊しとなってしまい、練習場所を失った。9月、2人の[[ドイツ人]]が加入し、[[中国人]]3名と[[ドイツ人]]3名による6人編成となった。文輝は斯蒂恩から[[ドイツ]]で購入してきたIbanezの限定版[[ギター]]を買った。当時の給料の25倍近くの値段であったが、仕方が無かった。徐衛文も留学生から[[キーボード]]とYAMAHAの[[ベース]]を購入した。練習場所は[[復旦大学]]の地下室を週1回ほど借りて練習した。徐文衛は大学卒業後、金山区で働いていたため、毎週末は練習場所で寝泊まりした。
  
文輝は斯蒂恩から[[ドイツ]]で購入してきたIbanezの限定版[[ギター]]を買った。当時の給料の25倍近くの値段であったが、仕方が無かった。徐衛文も留学生から[[キーボード]]とYAMAHAの[[ベース]]を購入した。練習場所は[[復旦大学]]の地下室を週1回ほど借りて練習した。徐文衛は大学卒業後、金山区で働いていたため、毎週末は練習場所で寝泊まりした。
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1992年夏休みの前、みんなで傅儉倫の実家のある[[浙江省]][[諸曁市]]の旅行景区の山の寺院に遊びに行った。[[上海市]]に戻った後、[[デモテープ(惱火練習楽隊)|デモテープ]]をレコーディングした。それを最後に、外国人の3名が帰国したため脱退した。また、[[復旦大学]]の練習室も失ったため、ドラムセットも傅儉倫に移動させ、練習もそこでただ[[ボーカル]]の練習が精一杯であった。ライブの機会も失ってしまっていた。8月、傅儉倫が[[フランス人]]女性と結婚したため、バンドとしては練習場所が無くなってしまった。その後、浦東新区源深路の農家が建てた家で練習を始めたが、電力不足でエアコンなども付けられない劣悪な環境であったが、仕方が無かった。
  
1992年夏休みの前、みんなで傅儉倫の実家のある[[浙江省]][[諸曁市]]の旅行景区の山の寺院に遊びに行った。[[上海市]]に戻った後、[[デモテープ(惱火練習楽隊)|デモテープ]]をレコーディングした。
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1993年末に[[滾石酒吧(上海店)|滾石酒吧]]が出来てからは、よくバーに行くようになり、それからバンドのレコーディング・練習・ライブなどができる場所が欲しいと思うようになる。
  
 
== ディスコグラフィー ==
 
== ディスコグラフィー ==
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*[[上海交通大学/1991年|1991年前半 上海市 上海交通大学閔行校区]]
 
*[[上海交通大学/1991年|1991年前半 上海市 上海交通大学閔行校区]]
 
*[[復旦大学/1992年4月22日|1992年4月22日 上海市 復旦大学開発中心倶楽部]] 新聞『解放日報』で報道された
 
*[[復旦大学/1992年4月22日|1992年4月22日 上海市 復旦大学開発中心倶楽部]] 新聞『解放日報』で報道された
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*[[藍天賓館/1993年|1993年 上海市 藍天賓館]] 《音像世界》歌迷会
  
 
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2020年3月26日 (木) 23:22時点における版

惱火練習楽隊
Naohuolianxi 14.jpg
1993年、藍天賓館でのライブ。(写真:[])
基本情報
中国語名(簡体字) 恼火联系
中国語名(繁体字) 惱火聯繫
拼音 Naohuolianxi
発音転記 ナオフオリエヌシィ
出身地 上海市
ジャンル ブリティッシュロックポップロック
活動期間 1990年 - 1991年
影響 The Beatles
メンバー 徐衛文
羅文輝
Naohuolianxi 11.jpg
Naohuolianxi 11.jpg
Naohuolianxi 11.jpg

惱火練習楽隊(ナオフオリエヌシィ、Naohuolianxi)は、1990年代前半、上海市で活動していたバンド。

メンバー

過去に在籍したメンバー

  • 兪征 ボーカル(1990年 - 1990年末) -- 復旦大学の学生。カナダに留学するため脱退。
  • 陳霄九 ベース(1990年 - 1991年前半)
  • 胡鴻俊(篤篤) ドラム & ボーカル(1990年 - 1991年前半) -- 上海城建職業学院の学生。
  • 傑夫 ベース(1991年前半 - 1991年前半?) -- アメリカ人留学生。真面目で、練習のミスを記録したり、外国のバンドの映像をみんなに見せていろいろなスタイルのバンドを紹介していたが、演奏はいまひとつで短期間で脱退。
  • 安徳 ギター(1991年9月 - 1992年夏) -- ドイツ人留学生。帰国後はハンドクラフトでギターを手掛けている。
  • 斯蒂恩(Andreas Steen) ドラム(1990年9月 - 1992年夏) -- ドイツ人留学生。ドイツでジャズバンド・Cat Walkを結成していた。一度帰国後、再度上海市に戻り上海音楽学院で博士課程を専攻後、デンマークのAarhus Universitetの東アジア学部の中国研究の教授となった。著作には『摇滚音乐的长征:流行与摇滚音乐在中国』(1996年、ドイツ語)など。
  • 尼尓斯 キーボード(1991年9月 - 1992年夏) -- ドイツ人留学生。帰国後は医者となった。

経歴

1990年、同済大学の学生であった羅文輝は上海交通大学付属中学時代の同級生である徐衛文と胡鴻俊に会いに行ったところ、徐衛文は2人にバンド結成を持ちかけた。元々この3人はギター愛好家で、いつも一緒にギターを片手に歌を歌っていたためである。3人は意気投合し、他に2人のメンバーを招集してバンドを結成した。最初は胡鴻俊が借りた赤峰路の部屋で練習していた。ただ、アコースティックギターしかなく、エレクトリックギタードラムなどの設備がないのが難点であったが、お金も無かった。そこで兪征が復旦大学に行き、美声牌のエレクトリックギター2本・美声牌のエレクトリックベース1本・ドラムセットを借りてきた。美声牌は上海生産のギターで非常に重く、とても扱いづらく、音もきちんと出ないが、仕方がなかった。結成当初はPaul SimonやThe Beatlesを練習していた。9月、同済大学で行なわれた留学生の誕生会に参加した時、ドイツ人留学生の斯蒂恩と知り合いになり、彼がバンドに加入した。それからは彼から楽器や練習方法を教わるなど、バンドにとってプラスとなった。ただ、斯蒂恩が加入してから初の練習の時、ドラムの脚が折れるなど、1、楽器の質が非常に悪かったほか、2、固定の練習場所が無いなど、練習に際してこの2つの問題に関してとても頭を悩ませていたため、それをそのままバンド名「惱火練習」とした。12月5日、初ライブを行なったが、The Beatlesの真似をして、スーツや革靴、ネクタイ、サングラスを付けて、統一感を出して舞台に立った。斯蒂恩のドラムスティックの音に合わせ、一斉にサングラスを取ってポケットにしまうなど、斯蒂恩のアドバイスでちょっとした小細工をして、演奏を開始した。観客の留学生は興奮して踊りだすなど、大好評を博し、アンコールがあったが、演奏できる曲をすべて演奏してしまったため、同じ曲を再度繰り返した。この時、何人かのミュージシャンが観客として来ていたことから、上海市のアンダーグラウンド界に彼らの名前が知れ渡るようになった。

1990年末から1991年7月にかけて、いろいろな大学ツアーを行なったが、一切の報酬は無く、楽器やメンバーの送迎と学食・ビールだけであった。この間、メンバー交代が相次いだ。1月には、斯蒂恩がオリジナルドラムセットを購入してきた。7月、赤峰路の練習場所が取り壊しとなってしまい、練習場所を失った。9月、2人のドイツ人が加入し、中国人3名とドイツ人3名による6人編成となった。文輝は斯蒂恩からドイツで購入してきたIbanezの限定版ギターを買った。当時の給料の25倍近くの値段であったが、仕方が無かった。徐衛文も留学生からキーボードとYAMAHAのベースを購入した。練習場所は復旦大学の地下室を週1回ほど借りて練習した。徐文衛は大学卒業後、金山区で働いていたため、毎週末は練習場所で寝泊まりした。

1992年夏休みの前、みんなで傅儉倫の実家のある浙江省諸曁市の旅行景区の山の寺院に遊びに行った。上海市に戻った後、デモテープをレコーディングした。それを最後に、外国人の3名が帰国したため脱退した。また、復旦大学の練習室も失ったため、ドラムセットも傅儉倫に移動させ、練習もそこでただボーカルの練習が精一杯であった。ライブの機会も失ってしまっていた。8月、傅儉倫がフランス人女性と結婚したため、バンドとしては練習場所が無くなってしまった。その後、浦東新区源深路の農家が建てた家で練習を始めたが、電力不足でエアコンなども付けられない劣悪な環境であったが、仕方が無かった。

1993年末に滾石酒吧が出来てからは、よくバーに行くようになり、それからバンドのレコーディング・練習・ライブなどができる場所が欲しいと思うようになる。

ディスコグラフィー

デモテープ

主要なライブ・コンサート