撹水男孩楽隊

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撹水男孩楽隊
Jiaoshuinanhai 11.jpg
1999年3月、唐山コンサートに参加したメンバー。
基本情報
中国語名(簡体字) 搅水男孩
中国語名(繁体字) 攪水男孩
拼音 Jiaoshui Nanhai
発音転記 ジアオショイ ナヌハイ
出身地 遼寧省瀋陽市
ジャンル グランジ
活動期間 1995年末 - ?
影響 Nirvana
メンバー 阿白
張浅
楊志明
老虎
小丹
朱遥
ファイル:(zhengzhoushi) 11.jpg
2002年12月25日のライブ。(写真:琦琦、自由之声

撹水男孩楽隊(ジアオショイ ナヌハイ、Jiaoshui Nanhai)は、2000年代前半、遼寧省瀋陽市で活動していたバンド。

メンバー

過去に在籍したメンバー

経歴

 瀋陽のバンド。1995年末結成。メンバーは阿白(Vo)・楊志明(G)・(G)・老虎(B)・(Dr)。音楽スタイルはNirvanaの影響を強く受けている。  1996年11月1・2日、説[イ尓]説我酒[ロ巴]で行われた“芸術家的精神聚会”に出演した。12月20日、“紅茶房的春天”ライブに参加した。

 1997年1月31日、“一記鉄拳”ライブに参加した。4月8日、“記念柯特柯本(Kurt Cobain)辞世三周年”ライブに参加した。同年、北京で活動しようと上京するが、北京のロック界に合わないと感じ、瀋陽に戻ってしまう。9月5日、鉄西区和平影劇院で、瀋陽アンダーグラウンド史に残るライブを行う。まだ、瀋陽ではほとんどライブが行われていなかった時だったが、1000人以上もの客が集まった。12月24日、瀋陽で子曰楽隊やNO楽隊と共にライブを行った。

 多くのバーや会場でライブを行い、その活躍振りが、『音楽天堂』・『朋克時代』・『摩登天空有声音楽雑誌』・『通俗歌曲』などの音楽雑誌に紹介されたことがあった。


1999年3月、唐山コンサートに参加したメンバー

 1998年4月には蘭州へ赴き、咸陽の子彈打完了楽隊、蘭州の王凡、點串楽隊、紅楽隊、水晶花園楽隊とともにライブを行う。戻ってきた後、メンバーの生活苦が原因でバンドは解散してしまった。  1999年になり、再結成する。3月27日、河北省唐山の西山口倶楽部で行われた“春天来了!!!‐1999中国新音楽発表会”に参加した。2000年12月19日、瀋陽の凱特金酒[ロ巴]でライブを行った。阿白は同年、瀋陽のインディーズカルチャー雑誌『大衆健康』を発行した。

 1990年代の瀋陽のインディーズバンドの中で、最も大陸中に名前が知れ渡っているバンドである。

 2001年のメンバーは阿白(Vo)・楊志明(リズムG)・張淺(リードG)・老虎(B)・小丹(Dr)・朱遥(Key)。4月27日、東陵文化宮でのライブを最後に5月初には上京し、樹村で生活をし始めた。8月、瀋陽の嬉皮士酒[ロ巴]で行われた“福音演唱会”に参加した。

2002年12月25日のライブ (写真:[王奇][王奇]、サイト:「自由之声」)

 2002年2月8日、約1年振りに瀋陽でライブを行った。2月28日、瀋陽市の嬉皮士酒[ロ巴]でライブを行った。7月20日、瀋陽市の嬉皮士酒[ロ巴]で行われたPK14楽隊の孫霞のための“尽可能---不挿電友情演出”チャリティコンサートに参加した。12月25日、瀋陽市の[石盍]酒[ロ巴]でライブを行った。  2003年3月30日、瀋陽の嬉皮士酒[ロ巴]で行われた“給和平一次機会-人道主義援助”チャリティーライブに参加した。4月5日、瀋陽の唐寧[ロ巴]倶楽部で行われた[シ文]麟と陸勳の“揺滾現場”のゲストとして出演した。

 2004年初、バンドは解散となった。

 張淺は2004年にまでにはバンドを脱退した。そして2004年4月18日には、大連の火鳥演芸[ロ巴]で行われた“DUNCAN之夜”ライブに参加した。

   

ディスコグラフィー

ソロ発表曲

曲名アルバム名発表年備考
化学尸体血色童心2001/8
化学尸体我愛揺滾楽112002/1『血色童心』と同じ

主要なライブ・コンサート

 瀋陽のバンド。1995年末結成。メンバーは阿白(Vo)・楊志明(G)・李一驍(G)・老虎(B)・狂魔(Dr)。音楽スタイルはNirvanaの影響を強く受けている。  1996年11月1・2日、説[イ尓]説我酒[ロ巴]で行われた“芸術家的精神聚会”に出演した。12月20日、“紅茶房的春天”ライブに参加した。

 1997年1月31日、“一記鉄拳”ライブに参加した。4月8日、“記念柯特柯本(Kurt Cobain)辞世三周年”ライブに参加した。同年、北京で活動しようと上京するが、北京のロック界に合わないと感じ、瀋陽に戻ってしまう。9月5日、鉄西区和平影劇院で、瀋陽アンダーグラウンド史に残るライブを行う。まだ、瀋陽ではほとんどライブが行われていなかった時だったが、1000人以上もの客が集まった。12月24日、瀋陽で子曰楽隊やNO楽隊と共にライブを行った。

 多くのバーや会場でライブを行い、その活躍振りが、『音楽天堂』・『朋克時代』・『摩登天空有声音楽雑誌』・『通俗歌曲』などの音楽雑誌に紹介されたことがあった。


1999年3月、唐山コンサートに参加したメンバー

 1998年4月には蘭州へ赴き、咸陽の子彈打完了楽隊、蘭州の王凡、點串楽隊、紅楽隊、水晶花園楽隊とともにライブを行う。戻ってきた後、メンバーの生活苦が原因でバンドは解散してしまった。  1999年になり、再結成する。3月27日、河北省唐山の西山口倶楽部で行われた“春天来了!!!‐1999中国新音楽発表会”に参加した。2000年12月19日、瀋陽の凱特金酒[ロ巴]でライブを行った。阿白は同年、瀋陽のインディーズカルチャー雑誌『大衆健康』を発行した。

 1990年代の瀋陽のインディーズバンドの中で、最も大陸中に名前が知れ渡っているバンドである。

 2001年のメンバーは阿白(Vo)・楊志明(リズムG)・張淺(リードG)・老虎(B)・小丹(Dr)・朱遥(Key)。4月27日、東陵文化宮でのライブを最後に5月初には上京し、樹村で生活をし始めた。8月、瀋陽の嬉皮士酒[ロ巴]で行われた“福音演唱会”に参加した。

2002年12月25日のライブ (写真:[王奇][王奇]、サイト:「自由之声」)

 2002年2月8日、約1年振りに瀋陽でライブを行った。2月28日、瀋陽市の嬉皮士酒[ロ巴]でライブを行った。7月20日、瀋陽市の嬉皮士酒[ロ巴]で行われたPK14楽隊の孫霞のための“尽可能---不挿電友情演出”チャリティコンサートに参加した。12月25日、瀋陽市の[石盍]酒[ロ巴]でライブを行った。  2003年3月30日、瀋陽の嬉皮士酒[ロ巴]で行われた“給和平一次機会-人道主義援助”チャリティーライブに参加した。4月5日、瀋陽の唐寧[ロ巴]倶楽部で行われた[シ文]麟と陸勳の“揺滾現場”のゲストとして出演した。

 2004年初、バンドは解散となった。

 張淺は2004年にまでにはバンドを脱退した。そして2004年4月18日には、大連の火鳥演芸[ロ巴]で行われた“DUNCAN之夜”ライブに参加した。