「仨児」の版間の差分

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1996年末に上京する。
 
1996年末に上京する。
  
1997年6月、[[痩人楽隊]][[再結成]]に参加し、ベースを担当した。同じ頃、彼自身が詞曲・ボーカル・ベースまで務めた曲、「宝貝睡覚」を[[オムニバスアルバム]]『[[非常揺滾貳]]』に発表する。
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1997年6月、[[痩人楽隊]]の再結成に参加し、ベースを担当した。同じ頃、彼自身が詞曲・ボーカル・ベースまで務めた曲、「宝貝睡覚」を[[オムニバス・アルバム]]『[[非常揺滾貳]]』に発表する。
  
 
普段は静かで、言葉数も少なく、酒・タバコを一切やらないため、とてもロックミュージシャンとは思えない。性格は温和で、友達のためには自分のことを顧みないで手助けをする‘義’の人である。
 
普段は静かで、言葉数も少なく、酒・タバコを一切やらないため、とてもロックミュージシャンとは思えない。性格は温和で、友達のためには自分のことを顧みないで手助けをする‘義’の人である。

2010年6月22日 (火) 05:05時点における版

仨兒(サアル、Sar、本名:朱俊鷹(ジュ ジュヌイン、Zhu Junying)、1971年-)は、河北省張家口市出身で、北京市在住のベーシスト漢民族痩人楽隊のメンバーである。

経歴

幼い頃、インド映画『流浪者』を見て、映画の中の全ての曲をインド語で歌った事に感動したのが、音楽と心が触れあうきっかけであった。やがて、プロのベーシストとなる事を夢見て、ベースを勉強し始める。

1989年に最初のバンドを結成する。

1993年、仨儿にとって初のロックバンドである地・老・大楽隊を結成し、ボーカルベースとなる。

1996年末に上京する。

1997年6月、痩人楽隊の再結成に参加し、ベースを担当した。同じ頃、彼自身が詞曲・ボーカル・ベースまで務めた曲、「宝貝睡覚」をオムニバス・アルバム非常揺滾貳』に発表する。

普段は静かで、言葉数も少なく、酒・タバコを一切やらないため、とてもロックミュージシャンとは思えない。性格は温和で、友達のためには自分のことを顧みないで手助けをする‘義’の人である。

2003年半ば、痩人楽隊のメンバーが大きく変更となったが、痩人楽隊での活動を継続し、戴秦と共に痩人楽隊を支え続けている。

2004年には、華偉音楽学校で教師として、学生達にベースを教えるなど、活動の幅を広げた。