「太陽同伴現代城市民謡演唱組」の版間の差分

提供:Chinese Rock Database
ナビゲーションに移動検索に移動
1行目: 1行目:
 
{{Infobox Musician
 
{{Infobox Musician
 
| name                = 太陽同伴現代城市民謡演唱組
 
| name                = 太陽同伴現代城市民謡演唱組
| image                = [[Image:Taiyangtongban_11.jpg|center|290px]]
+
| image                = [[Image:Taiyangtongban_12.jpg|center|290px]]
| iamge_caption        = 1990年、[[上海師範大学]]でのライブ前の練習風景。(写真提供:[[周紫峰]])
+
| iamge_caption        = 左から:[[周紫峰]]・印悦・崔駿・鄭南・王蘭・葉亏夫。(写真提供:[[周紫峰]])
 
| chinesename_jiantizi = 太阳同伴现代城市民谣演唱组
 
| chinesename_jiantizi = 太阳同伴现代城市民谣演唱组
 
| chinesename_fantizi  = 太陽同伴現代城市民謠演唱組
 
| chinesename_fantizi  = 太陽同伴現代城市民謠演唱組
59行目: 59行目:
 
*1989年 [[上海市]] [[上海交通大学]] [[張広天]]は参加できなかった。
 
*1989年 [[上海市]] [[上海交通大学]] [[張広天]]は参加できなかった。
 
*[[89新開発上海現代演唱組首演|1989年 上海市 雲峰不夜城歌舞庁 89新開発上海現代演唱組首演]]
 
*[[89新開発上海現代演唱組首演|1989年 上海市 雲峰不夜城歌舞庁 89新開発上海現代演唱組首演]]
*1990年 [[上海市]] [[上海師範大学]]
 
  
 
{{DEFAULTSORT:Taiyangtongban}}
 
{{DEFAULTSORT:Taiyangtongban}}

2019年8月29日 (木) 16:43時点における版

太陽同伴現代城市民謡演唱組
Taiyangtongban 12.jpg
左から:周紫峰・印悦・崔駿・鄭南・王蘭・葉亏夫。(写真提供:周紫峰
基本情報
中国語名(簡体字) 太阳同伴现代城市民谣演唱组
中国語名(繁体字) 太陽同伴現代城市民謠演唱組
拼音 Taiyangtongban Xiandaichengshiminyaoyanchangzu
発音転記 タイヤントォンバヌ シエヌダイチョンシミヌヤオイェヌチャンズゥ
別名 太陽同伴演唱組、太陽同伴
出身地 上海市
ジャンル ポップポップロックシティーフォーク
活動期間 1985年 - 1990年
影響 Bob Dylan・John Lennon・Carpenters・The Beatles・羅大佑・斉秦
メンバー 葉亏夫
張広天
1988年の写真。(写真提供:周紫峰

太陽同伴現代城市民謡演唱組(タイヤントォンバヌ シエヌダイチョンシミヌヤオイェヌチャンズゥ、Taiyangtongban Xiandaichengshiminyaoyanchangzu)は、1980年代後半、上海市で活動していたバンド。太陽同伴楽隊とも呼ばれる。

メンバー

経歴

再見創作組の別名である。当初はメンバーは葉亏夫が作詞、張広天が作曲を行なうスタイルを取っていた。それ以外のメンバーはいろいろと交代となっている。バンドと言っても、詩を読んだり、ロックを演奏したり、フォークを演奏したり、当時入手や聴くことができた本や音楽によって変化していた。創作した曲は、理想主義的な子供っぽい曲(誕生日のお祝いの歌など)から、社会現実を見つめた曲(スペースシャトル・チャレンジャー乗組員に捧げる歌など)まで、幅広かった。音楽は簡単で、きれいなメロディで、歌詞も分かり易いものにしたが、パワーに欠けていたが、そのパワーを追求する事もなかった。

初ライブを行なった後、張広天が反動者の疑いで公安の取り調べを受け、その後、江蘇省塩城市大豊県の労教農場に送り込まれてしまい、バンド活動を長期に渡って休止せざるを得なくなった。

1989年、復旦大学上海交通大学でライブを行なった。ボーカルは複数の人が担当していた。このどちらかのライブで演奏した曲は、「嫁给美国人的姑娘」・「科科的等待」・「勃拉姆斯」・「遥想」など。

やがて、ラジオの番組「星期広播音楽会」でライブの様子が放送されたが、張広天は労教農場でそのラジオ番組を聴いていた。

張広天がバンドに復帰してから間もなくして、アルバム発売の話が持ち上がり、上海音像公司のスタジオでレコーディングしたが、結局発売には至らなかった。

結成当初から1990年頃までの間に、主要メンバーである葉亏夫と張広天の音楽スタイルも変化し、結成当初のメンバーも脱退してしまったこともあり、バンド名を重点工程楽隊と改名した。

主要なライブ・コンサート