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バンドとしてはこれから頑張っていく必要があったが、リーダーの[[葉亏夫]]が1988年7月から1989年7月まで、肺結核の治療で隔離・入院してしまい、バンドは活動が停滞することになった。 | バンドとしてはこれから頑張っていく必要があったが、リーダーの[[葉亏夫]]が1988年7月から1989年7月まで、肺結核の治療で隔離・入院してしまい、バンドは活動が停滞することになった。 |
2019年9月24日 (火) 00:24時点における版
太陽同伴現代城市民謡演唱組 | |
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基本情報 | |
中国語名(簡体字) | 太阳同伴现代城市民谣演唱组 |
中国語名(繁体字) | 太陽同伴現代城市民謠演唱組 |
拼音 | Taiyangtongban Xiandaichengshi Minyaoyanchangzu |
発音転記 | タイヤントォンバヌ シエヌダイチョンシ ミヌヤオイェヌチャンズゥ |
別名 | 太陽同伴演唱組、太陽同伴 |
出身地 | 上海市 |
ジャンル | ポップ・ポップロック・シティーフォーク |
活動期間 |
1985年 - 1987年4月 1987年4月 - 1989年7月 |
影響 | Bob Dylan・John Lennon・Carpenters・The Beatles・羅大佑・斉秦 |
メンバー |
葉亏夫 王蘭 張広天 崔駿 周紫峰 鄭南 印悦 |
太陽同伴現代城市民謡演唱組(タイヤントォンバヌ シエヌダイチョンシ ミヌヤオイェヌチャンズゥ、Taiyangtongban Xiandaichengshi Minyaoyanchangzu)は、1980年代後半、上海市で活動していたバンド。本来は太陽同伴楽隊と呼ばれる。
メンバー
- 葉亏夫(戴立新) ボーカル & ベース & 作曲(1985年 - 1989年7月) -- リーダー。再見創作組から活動。1988年7月から1989年7月まで、肺結核の治療でバンドを離れた。1989年、上海仲林歌舞劇団電声楽団を結成した。
- 王蘭 ボーカル(1987年4月 - 1989年7月) -- 女性。
- 張広天 作詞(1985年 - 1989年) -- 再見創作組から活動。1985年末から1989年までは参加できなかった。
- 崔駿 ボーカル(1987年4月 - 1989年7月)
- 周紫峰 リードギター(1987年4月 - 1989年7月) -- 葉亏夫に誘われて加入した。1989年、上海仲林歌舞劇団電声楽団を結成した。
- 鄭南 ボーカル & ベース & ギター(1987年4月 - 1989年7月) -- 1989年、上海仲林歌舞劇団電声楽団を結成し、リズムギターを担当した。
- 印悦 キーボード(? - 1989年7月) -- 女性。1989年、上海仲林歌舞劇団電声楽団を結成した。
過去に在籍したメンバー
- 湯勁容 ボーカル(1987年4月 - ?)
- 肖輝武 ボーカル(1987年4月 - ?)
- 鄭永強(老鴿子) ドラム(1987年4月 - 1989年) -- 1989年、上海仲林歌舞劇団電声楽団を結成した。
- 馬鴻鰲 ベース(1988年7月 - 1989年7月) -- 葉亏夫がライブに参加できないため、周紫峰に誘われて加入。1988年8月8日、大衆人楽隊を結成した。1989年、上海仲林歌舞劇団電声楽団を結成した。
マネージャー
- 黄石 マネージャー(1988年 - 1989年7月) -- 新聞『上海文化芸術報』の記者。
経歴
当初は再見創作組という名前で、葉亏夫が作曲、張広天が作詞を行なうスタイルを取っていた。それ以外のメンバーはいろいろと交代となっている。バンドと言っても、詩を読んだり、ロックを演奏したり、フォークを演奏したり、当時入手や聴くことができた本や音楽によって変化していた。創作した曲は、理想主義的な子供っぽい曲(誕生日のお祝いの歌など)から、社会現実を見つめた曲(スペースシャトル・チャレンジャー乗組員に捧げる歌など)まで、幅広かった。音楽は簡単で、きれいなメロディで、歌詞も分かり易いものにしたが、パワーに欠けていたが、そのパワーを追求する事もなかった。
初ライブを行なった後、張広天が反動者の疑いで公安の取り調べを受け、1986年秋から、江蘇省塩城市大豊県の労教農場に送り込まれてしまい、バンド活動を長期に渡って休止せざるを得なくなった。
やがて曹小磊が、上海现代人剧社创始人,也是位写歌词高手,认识熟悉叶亏夫以后就先后写了《生命激情》,《太阳同伴》,《勃拉姆斯》等五首歌词。由叶亏夫作曲。其中《太阳同伴》这首歌让大家都觉得是最具激情和号召性的。
1987年4月、葉亏夫がテレビ局のために6曲創作した。そのうち、1曲が「太阳同伴」という曲名で、この曲名を再見創作組の新しいバンド名とした。練習は田林十二村85号で葉亏夫の家であった。
ラジオや大学、体育館などでライブを行なった時は、オリジナル曲ばかりを演奏していた。
バンドとしてはこれから頑張っていく必要があったが、リーダーの葉亏夫が1988年7月から1989年7月まで、肺結核の治療で隔離・入院してしまい、バンドは活動が停滞することになった。
1989年、復旦大学と上海交通大学でライブを行なった。ボーカルは複数の人が担当していた。このどちらかのライブで演奏した曲は、「嫁给美国人的姑娘」・「科科的等待」・「勃拉姆斯」・「遥想」など、オリジナル曲である。バンド名は、当初の太陽同伴現代城市民謡演唱組より、太陽同伴楽隊と名乗るほうが自然な楽器編成であったが、メディアでは「楽隊」の文字が使えなかったため、ずっと演唱組と呼ばれていた。
やがて、ラジオの番組「星期広播音楽会」でライブの様子が放送されたが、張広天は労教農場でそのラジオ番組を聴いていた。
張広天がバンドに復帰してから間もなくして、アルバム発売の話が持ち上がり、上海音像公司のスタジオでレコーディングしたが、結局発売には至らなかった。
1989年7月、葉亏夫が復帰したが、主要メンバーである葉亏夫と張広天の音楽スタイルも変化し、結成当初のメンバーも脱退してしまったこともあり、バンド名を重点工程楽隊と改名した。