姜北生

提供:Chinese Rock Database
2020年6月19日 (金) 18:39時点におけるYaonpghab (トーク | 投稿記録)による版
ナビゲーションに移動検索に移動
姜北生
Jiangbeisheng 11.jpg
基本情報
中国語名(簡体字) 姜北生
中国語名(繁体字) 姜北生
拼音 Jiang Beisheng
発音転記 ジアン ベイション
出生日 1983年7月2日
学歴 河北大学影視芸術学院
出身地 河北省
担当楽器 ボーカルギタードラム
職業 レコーディングエンジニアプロデューサープロダクション経営者

姜北生(ジアン ベイション、Jiang Beisheng、1983年7月2日 -)は、河北省出身で、北京市で活動しているレコーディングエンジニア

経歴

中学卒業の時、父親からギターを買ってもらい、やがて楽器販売店で練習している時にバンドを結成した。そしてボーカルギターを担当した。またメンバーには李擎(Dr)がいた。練習場所は楽器販売店近くに借りた部屋の中であった。創作活動やロックを聴いている時が人生で最もアツい時であった。

この頃からネットが発達し、レコーディングミキシングなどの知識を手に入れ、自分でいろいろ試すようになった。ただ、高校生だったため、まだいろいろ勉強をしなくてはいけない時期であり、父親は彼にギターを購入した事を後悔した。やがてギタリストからカッコいいから俳優を目指して勉強したほうがいいと言われてその気になり、2001年夏、間もなく高校を卒業する予定の時、張家口話劇団所属の先生の下について勉強したが、まずセリフを中心に勉強するように勧められる。大学受験の時、散文を暗記して発表したほか、Elvis Presleyの「Love Me Tender」を歌った。やがて、河北省石家荘市にある河北大学影視芸術学院に合格した。別に俳優になる目的ではなかったが、いい大学に入学するための手段であった。

大学入学後は、バンド活動ばかりしていた。2004年から翌年頃には壊罐頭楽隊自由登陸楽隊に加入した。

やがて、芸術系の学部がレコーディングディングエンジニアを探しており、姜北生がバンド活動以外にレコーディングもできると聞きつけたため、彼にレコーディングやミキシング、アレンジなどの仕事を上げた。その後、河北電視台の戯曲節のPAを担当した。

大学在籍中は陳偉倫と知り合いになり、彼から大学卒業後に上学を進められる。仕事を紹介するという話であったが、2005年に実際に上京すると、彼からは先に自分で仕事を探してみたほうがいいと言われてしまう。そしてネット上でレコーディング関連の仕事を見つけた。入社後に会社から提示された金額は月5000元で、当時としては破格の待遇であった。

しかし1週間後に陳偉倫の勧めで、音楽プロダクション・網絡秀のプロデュース部のアシスタントをすることなった。給与は1900元(税引き後)になってしまい、非常に安かったが、音楽に関する仕事に就きたかったため、お金は二の次であった。最初の仕事は万暁利の『這一切没有想象的那麼糟』で、ミックスダウンまで1か月しかない、とても忙しい仕事であったほか、ミキシングの経験はあったが、新人であったため、頻繁に万暁利と口喧嘩していた。最終的に万暁利盧中強からOKサインが出て、アルバム発売となった。このアルバムはこれまでの人生の中で最も印象に残っているアルバムとなった。

この頃、インターネット会社に就職していた李志とも知り合いとなる。

2年ほど網絡秀で働いた後、環球唱片レコーディングエンジニアとして就職した。しかし、就職した後に環球唱片は外部委託が多く、社内でレコーディングすることはあまり無かった。いろいろ提案したが、結局は受け入れられず、空いた時間はトレーニングジムで体を鍛え、仕事を終えた後は別な人のためにレコーディングをしていた。この生活は無駄だと考え、1年半後に退職した。

その後、元・網絡秀である十三月唱片に誘われ、いろいろサポートするようになるが、十三月唱片は常に資金面で苦労していた。2008年には副総経理となった。

2010年、李志の「我愛南京演唱会」でPAを担当することになった。元々は想定しておらず、当初予定していたPAが時間が無かったため、代わりに引き受けたことであったが、その後、李志のアルバムレコーディングやライブに必ず参加するようになった。

2012年、張博と共にS.A.G舞台芸術工作組を組織した。

その後、李志の全国ツアーも基本的に着いて行った。

ディスコグラフィー

参加アルバム 

テンプレート:Participation List 100

外部リンク