「戴秦」の版間の差分

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(ダイチヌ、Dai Qin)は、[[内蒙古自治区]][[赤峰市]]出身で、[[北京]]市在住の[[アーティスト]]。[[蒙古族]]。[[痩人楽隊]]のリーダーである。
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== 経歴 ==
 
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[[1993年]]10月、[[痩人楽隊]]を結成し、ベースを担当する。同時期に、[[夢幻楽隊]]や[[大頭鞋楽隊]]にも参加し、ベースを弾いた。
 
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[[1994年]]5月、[[痩人楽隊]]は解散した。9月、[[暖気楽隊]]を結成して、[[ボーカル]]兼[[ベーシスト]]となる。暖気楽隊が解散となった後は、[[磨合楽隊]]の[[ギターリスト]]であった[[符寧]]と共に「黒宝貝」、「又是一個下雨天」を発表する。[[アルバム]]クレジット名は、[[戴秦與楽隊]]であった。2曲ともアコースティック調の軽快なリズムの曲で、「黒宝貝」は[[1996年]]にラジオ[[北京音楽台]]のヒットチャートにランクインし、評判となる。
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[[1994年]]5月、[[痩人楽隊]]は解散した。9月、[[暖気楽隊]]を結成して、[[ボーカル]]兼[[ベーシスト]]となる。暖気楽隊が解散となった後は、[[磨合楽隊]]の[[ギタリスト]]であった[[符寧]]と共に「黒宝貝」、「又是一個下雨天」を発表する。[[アルバム]]クレジット名は、[[戴秦與楽隊]]であった。2曲ともアコースティック調の軽快なリズムの曲で、「黒宝貝」は[[1996年]]にラジオ[[北京音楽台]]のヒットチャートにランクインし、評判となる。
  
 
[[1997年]]6月、[[痩人楽隊]]を再結成する。彼以外は全て新メンバーとなる。そして戴秦はボーカルに専念する。
 
[[1997年]]6月、[[痩人楽隊]]を再結成する。彼以外は全て新メンバーとなる。そして戴秦はボーカルに専念する。

2010年6月2日 (水) 07:00時点における版

(ダイチヌ、Dai Qin)は、内蒙古自治区赤峰市出身で、北京市在住のアーティスト蒙古族痩人楽隊のリーダーである。

経歴

上京した直後は、蒙古族5人によるバンド・五角星楽隊に所属し、ベースを担当していた。

1993年10月、痩人楽隊を結成し、ベースを担当する。同時期に、夢幻楽隊大頭鞋楽隊にも参加し、ベースを弾いた。

1994年5月、痩人楽隊は解散した。9月、暖気楽隊を結成して、ボーカルベーシストとなる。暖気楽隊が解散となった後は、磨合楽隊ギタリストであった符寧と共に「黒宝貝」、「又是一個下雨天」を発表する。アルバムクレジット名は、戴秦與楽隊であった。2曲ともアコースティック調の軽快なリズムの曲で、「黒宝貝」は1996年にラジオ北京音楽台のヒットチャートにランクインし、評判となる。

1997年6月、痩人楽隊を再結成する。彼以外は全て新メンバーとなる。そして戴秦はボーカルに専念する。

1998年オムニバスアルバム非常揺滾貳』に再び戴秦與楽隊名義で「緊緊擁抱」を発表した。

1999年には痩人楽隊の1stアルバムを発売する。活動は順調であったが、2000年2月の河北省廊坊でのコンサートの際、コンサート中に足を複雑骨折をさせてしまい、活動の制限を余儀なくされる。数ヶ月後には回復し、8月には日本でもライブを行い、多くの日本人を魅了させた。

外交的な性格で、民族問わず、誰に対しても分別なく温かく接してくれるため、彼の擒になってしまう人は大多数に及び、交友範囲はとても広い。また、中国動物保護協会にも参加するなど、動物好きの一面を持つ。

2003年前半にはイギリスへ行った。2ヶ月だが、そこで生活することによって様々な音楽的アイデアを手に入れ、音楽スタイルが少し変化してきた。痩人楽隊のメンバー変更もあり、戴秦も、ボーカルだけではなく、ギターも演奏するようになった。

2005年1月16日、新豪運酒吧で行われた「スマトラ島沖地震チャリティーライブ」に参加した。同年、Takamineギターのエンドーサーとなった。

影響を受けた音楽

若い頃はThe Beatlesの影響を受け、腕に「Beatles」の文字のタトゥーを入れるほどであった。やがてJane's AddictionやRed Hot Chili Peppersなどのオルタナティブロックを好んで聴くようになる。1990年代後半は、Rage Against the Machineの強い影響を受け、ハードコア色が強くなり、それが痩人楽隊の1stアルバムにも色濃く反映された。中国人の中では、比較的早い時期にハードコアスタイルを取り入れた音楽を始めた1人であった。2003年にイギリスへ行ってからは、ブリティッシュロックの影響を受けたのか、ハードコア色が薄れ、原点回帰になりつつある。