「王瀾」の版間の差分

提供:Chinese Rock Database
ナビゲーションに移動検索に移動
1行目: 1行目:
'''王瀾'''(ワン ラヌ、Wang Lan、[[1974年]]1月7日-)は、[[北京]]市出身の[[ドラマー]]。[[漢民族]]。中国を代表するドラマーの1人として名前が知れ渡っている。
+
'''王瀾'''(ワン ラヌ、Wang Lan、1974年1月7日-)は、[[北京]]市出身の[[ドラマー]]。[[漢民族]]。中国を代表するドラマーの1人として名前が知れ渡っている。
  
 
== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
父親は国家一級指揮者で、母親が国家一級歌手という、音楽家庭であった。7歳から美術を勉強していたが、両親の仕事の縁故により、13歳の時から、花盆鼓・板鼓・排鼓などの民族[[パーカッション]]を学び始める。のち、JIMI HENDRIXとJAMES BROWNの影響を受け、自分のスタイルを形成していった。16歳の時から、小軍鼓を学び始める。間もなく学び始めた[[ドラム]]は、独学で覚えていった。[[1992年]]、中華全国総工会文工団に入って演奏員となり、各地でコンサートを行なう。そこでライブの感覚と経験を積んでいった。
+
父親は国家一級指揮者で、母親が国家一級歌手という、音楽家庭であった。7歳から美術を勉強していたが、両親の仕事の縁故により、13歳の時から、花盆鼓・板鼓・排鼓などの民族[[パーカッション]]を学び始める。のち、JIMI HENDRIXとJAMES BROWNの影響を受け、自分のスタイルを形成していった。16歳の時から、小軍鼓を学び始める。間もなく学び始めた[[ドラム]]は、独学で覚えていった。1992年、中華全国総工会文工団に入って演奏員となり、各地でコンサートを行なう。そこでライブの感覚と経験を積んでいった。
  
[[1993年]]5月、19歳の時に[[スラッシュメタル]]バンド・[[超載楽隊]]のメンバーとなり、同年、[[蘇珊娜夜総会]]で最初のライブを行なう。彼にとって生涯忘れない舞台となった。
+
1993年5月、19歳の時に[[スラッシュメタル]]バンド・[[超載楽隊]]のメンバーとなり、同年、[[蘇珊娜夜総会]]で最初のライブを行なう。彼にとって生涯忘れない舞台となった。
  
[[1994年]]6月には、[[竇唯]]のバックバンドの一員として、[[香港]]に赴き、[[イギリス]]のRadio Headと同じ舞台に立つ。同年末に再び竇唯のバックバンドの一員として香港に赴き、[[張楚]]・[[何勇]]・[[唐朝楽隊]]とともに、「[[中国揺滾楽勢力]]コンサート」に参加した。
+
1994年6月には、[[竇唯]]のバックバンドの一員として、[[香港]]に赴き、[[イギリス]]のRadio Headと同じ舞台に立つ。同年末に再び竇唯のバックバンドの一員として香港に赴き、[[張楚]]・[[何勇]]・[[唐朝楽隊]]とともに、「[[中国揺滾楽勢力]]コンサート」に参加した。
 
   
 
   
[[1995年]]初には[[周韧]]&[[紅燒肉楽隊]]に加わる。同年末には[[超載楽隊]]の1stアルバムのレコーディングに参加した。
+
1995年初には[[周韧]]&[[紅燒肉楽隊]]に加わる。同年末には[[超載楽隊]]の1stアルバムのレコーディングに参加した。
  
[[1996年]]初、[[周韧]]の1stアルバムのレコーディング参加する。しかし、この後周韧のバンドは[[劉文泰]]の海外留学により解散してしまう。
+
1996年初、[[周韧]]の1stアルバムのレコーディング参加する。しかし、この後周韧のバンドは[[劉文泰]]の海外留学により解散してしまう。
  
[[1997年]]には[[張楚]]のアルバム、『[[造飛機的工廠]]』のレコーディングに参加する。3月、[[許巍]]のバックバンドの一員となり、[[長安]]、[[西安]]等で多くのライブをこなす。6月、[[戴秦]]らと共に[[痩人楽隊]]を結成する。同年末には、ラジオ・[[北京音楽台]]の年度最優秀ドラマーの栄誉に輝く。
+
1997年には[[張楚]]のアルバム、『[[造飛機的工廠]]』のレコーディングに参加する。3月、[[許巍]]のバックバンドの一員となり、[[長安]]、[[西安]]等で多くのライブをこなす。6月、[[戴秦]]らと共に[[痩人楽隊]]を結成する。同年末には、ラジオ・[[北京音楽台]]の年度最優秀ドラマーの栄誉に輝く。
  
[[1998年]]初には、著名な[[プロデューサー]]・[[張亞東]]の1stアルバムのレコーディングに参加した。この年から、[[痩人楽隊]]・[[超載楽隊]]・[[張楚]]・[[許巍]]の4バンドでドラムを叩く生活になる。北京の[[ライブハウス]]・[[KEEP IN TOUCH]]([[保持聯絡]])で行われた[[張炬]]追悼ライブでは、5つのバンドでドラムを叩いた。同年末には、[[崔健]]の4thアルバム制作に参加し、また彼がコンサートツアーでもドラムを叩き、[[蘭州]]、[[南昌]]、[[成都]]等でのコンサートに参加した。
+
1998年初には、著名な[[プロデューサー]]・[[張亞東]]の1stアルバムのレコーディングに参加した。この年から、[[痩人楽隊]]・[[超載楽隊]]・[[張楚]]・[[許巍]]の4バンドでドラムを叩く生活になる。北京の[[ライブハウス]]・[[KEEP IN TOUCH]]([[保持聯絡]])で行われた[[張炬]]追悼ライブでは、5つのバンドでドラムを叩いた。同年末には、[[崔健]]の4thアルバム制作に参加し、また彼がコンサートツアーでもドラムを叩き、[[蘭州]]、[[南昌]]、[[成都]]等でのコンサートに参加した。
  
[[1999年]]、[[超載楽隊]]の2ndアルバム制作に参加した。その後、[[鄭鈞]]の3rdアルバムレコーディングメンバーに加わり、また彼の[[上海]]コンサートでもドラムを叩いた。7月、[[痩人楽隊]]の1stアルバムを制作する。
+
1999年、[[超載楽隊]]の2ndアルバム制作に参加した。その後、[[鄭鈞]]の3rdアルバムレコーディングメンバーに加わり、また彼の[[上海]]コンサートでもドラムを叩いた。7月、[[痩人楽隊]]の1stアルバムを制作する。
  
[[2000年]]4月には、シンバル・Zildjianの[[エンドーサー]]となる。9月には、ドラム・[[Ludwig]]の中国唯一の[[エンドーサー]]となる。
+
2000年4月には、シンバル・Zildjianの[[エンドーサー]]となる。9月には、ドラム・[[Ludwig]]の中国唯一の[[エンドーサー]]となる。
  
 
彼の履歴からも分かるとおり、ひとつのバンドには所属していない。それは、彼の技術を求める人が多く存在することの現れでもある。彼が[[超載楽隊]]に加入してロック界に飛びこんで以来、いまだに彼を越えるドラマーは中国には存在しない。
 
彼の履歴からも分かるとおり、ひとつのバンドには所属していない。それは、彼の技術を求める人が多く存在することの現れでもある。彼が[[超載楽隊]]に加入してロック界に飛びこんで以来、いまだに彼を越えるドラマーは中国には存在しない。
  
[[2001年]]5月、ドラムスティック・[[PRO-MARK]]の中国唯一の[[エンドーサー]]となる。また同年、[[郭智音楽教室]]や[[華偉音楽学校]]でドラムの講師を務めるようになった。同年末には、[[單小帆]]・[[劉峰]]と共にドラム教室を開いた。
+
2001年5月、ドラムスティック・[[PRO-MARK]]の中国唯一の[[エンドーサー]]となる。また同年、[[郭智音楽教室]]や[[華偉音楽学校]]でドラムの講師を務めるようになった。同年末には、[[單小帆]]・[[劉峰]]と共にドラム教室を開いた。
  
[[2002年]]3月17日から、[[日本]]で行なわれた“日中国交正常化30周年、音楽文化交流”に参加した。
+
2002年3月17日から、[[日本]]で行なわれた“日中国交正常化30周年、音楽文化交流”に参加した。
  
[[2003年]]5月、[[痩人楽隊]]を脱退した。同年、[[艶楽隊]]を結成した。同年半ば、[[超載楽隊]]を脱退した。
+
2003年5月、[[痩人楽隊]]を脱退した。同年、[[艶楽隊]]を結成した。同年半ば、[[超載楽隊]]を脱退した。
 
   
 
   
[[2005年]]10月20日、[[上海]]の[[新国際博覧中心]]で行われた「[[2005中国(上海)国際楽器展覧会-第一届中国国際鼓手節]]」に参加した。11月5日、[[新豪運酒吧]]でドラムデモンストレーションを行なった。
+
2005年10月20日、[[上海]]の[[新国際博覧中心]]で行われた「[[2005中国(上海)国際楽器展覧会-第一届中国国際鼓手節]]」に参加した。11月5日、[[新豪運酒吧]]でドラムデモンストレーションを行なった。
  
[[2006年]]、[[藍楽隊]]を結成した。
+
2006年、[[藍楽隊]]を結成した。
  
[[2007年]]、[[瀾办得楽隊]]を結成した。6月24日、[[星光現場音楽庁]]で行なわれた「[[第1届Bass Night]]」に参加し、[[李劍]]や[[王學科]]と共にライブを行なった。7月13日、[[豪運酒吧]]で行なわれた[[液氧罐頭楽隊]]の[[アンプラグドライブ]]にゲスト出演した。11月25日、[[星光現場音楽庁]]で行なわれた「[[鼓舞飛揚 - 第1届鼓手中国.鼓吧鼓友会]]」のライブに、[[瀾办得楽隊]]を率いて参加した。
+
2007年、[[瀾办得楽隊]]を結成した。6月24日、[[星光現場音楽庁]]で行なわれた「[[第1届Bass Night]]」に参加し、[[李劍]]や[[王學科]]と共にライブを行なった。7月13日、[[豪運酒吧]]で行なわれた[[液氧罐頭楽隊]]の[[アンプラグドライブ]]にゲスト出演した。11月25日、[[星光現場音楽庁]]で行なわれた「[[鼓舞飛揚 - 第1届鼓手中国.鼓吧鼓友会]]」のライブに、[[瀾办得楽隊]]を率いて参加した。
  
[[2008年]]8月31日、[[星光現場音楽庁]]で行なわれた「[[鼓舞飛揚 - 鼓手中国08金秋鼓友会]]」に王瀾與[[瀾办得楽隊]]として参加した。
+
2008年8月31日、[[星光現場音楽庁]]で行なわれた「[[鼓舞飛揚 - 鼓手中国08金秋鼓友会]]」に王瀾與[[瀾办得楽隊]]として参加した。
  
[[2010年]]4月1日、[[MAO]]で行われた[[陳勁]]の3rdアルバム発表会に、[[梁龍]]・[[呉澤琨]]・[[單小帆]]・[[余偉民]]と共に参加した。
+
2010年4月1日、[[MAO]]で行われた[[陳勁]]の3rdアルバム発表会に、[[梁龍]]・[[呉澤琨]]・[[單小帆]]・[[余偉民]]と共に参加した。
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==

2010年6月5日 (土) 11:33時点における版

王瀾(ワン ラヌ、Wang Lan、1974年1月7日-)は、北京市出身のドラマー漢民族。中国を代表するドラマーの1人として名前が知れ渡っている。

経歴

父親は国家一級指揮者で、母親が国家一級歌手という、音楽家庭であった。7歳から美術を勉強していたが、両親の仕事の縁故により、13歳の時から、花盆鼓・板鼓・排鼓などの民族パーカッションを学び始める。のち、JIMI HENDRIXとJAMES BROWNの影響を受け、自分のスタイルを形成していった。16歳の時から、小軍鼓を学び始める。間もなく学び始めたドラムは、独学で覚えていった。1992年、中華全国総工会文工団に入って演奏員となり、各地でコンサートを行なう。そこでライブの感覚と経験を積んでいった。

1993年5月、19歳の時にスラッシュメタルバンド・超載楽隊のメンバーとなり、同年、蘇珊娜夜総会で最初のライブを行なう。彼にとって生涯忘れない舞台となった。

1994年6月には、竇唯のバックバンドの一員として、香港に赴き、イギリスのRadio Headと同じ舞台に立つ。同年末に再び竇唯のバックバンドの一員として香港に赴き、張楚何勇唐朝楽隊とともに、「中国揺滾楽勢力コンサート」に参加した。

1995年初には周韧&紅燒肉楽隊に加わる。同年末には超載楽隊の1stアルバムのレコーディングに参加した。

1996年初、周韧の1stアルバムのレコーディング参加する。しかし、この後周韧のバンドは劉文泰の海外留学により解散してしまう。

1997年には張楚のアルバム、『造飛機的工廠』のレコーディングに参加する。3月、許巍のバックバンドの一員となり、長安西安等で多くのライブをこなす。6月、戴秦らと共に痩人楽隊を結成する。同年末には、ラジオ・北京音楽台の年度最優秀ドラマーの栄誉に輝く。

1998年初には、著名なプロデューサー張亞東の1stアルバムのレコーディングに参加した。この年から、痩人楽隊超載楽隊張楚許巍の4バンドでドラムを叩く生活になる。北京のライブハウスKEEP IN TOUCH保持聯絡)で行われた張炬追悼ライブでは、5つのバンドでドラムを叩いた。同年末には、崔健の4thアルバム制作に参加し、また彼がコンサートツアーでもドラムを叩き、蘭州南昌成都等でのコンサートに参加した。

1999年、超載楽隊の2ndアルバム制作に参加した。その後、鄭鈞の3rdアルバムレコーディングメンバーに加わり、また彼の上海コンサートでもドラムを叩いた。7月、痩人楽隊の1stアルバムを制作する。

2000年4月には、シンバル・Zildjianのエンドーサーとなる。9月には、ドラム・Ludwigの中国唯一のエンドーサーとなる。

彼の履歴からも分かるとおり、ひとつのバンドには所属していない。それは、彼の技術を求める人が多く存在することの現れでもある。彼が超載楽隊に加入してロック界に飛びこんで以来、いまだに彼を越えるドラマーは中国には存在しない。

2001年5月、ドラムスティック・PRO-MARKの中国唯一のエンドーサーとなる。また同年、郭智音楽教室華偉音楽学校でドラムの講師を務めるようになった。同年末には、單小帆劉峰と共にドラム教室を開いた。

2002年3月17日から、日本で行なわれた“日中国交正常化30周年、音楽文化交流”に参加した。

2003年5月、痩人楽隊を脱退した。同年、艶楽隊を結成した。同年半ば、超載楽隊を脱退した。

2005年10月20日、上海新国際博覧中心で行われた「2005中国(上海)国際楽器展覧会-第一届中国国際鼓手節」に参加した。11月5日、新豪運酒吧でドラムデモンストレーションを行なった。

2006年、藍楽隊を結成した。

2007年、瀾办得楽隊を結成した。6月24日、星光現場音楽庁で行なわれた「第1届Bass Night」に参加し、李劍王學科と共にライブを行なった。7月13日、豪運酒吧で行なわれた液氧罐頭楽隊アンプラグドライブにゲスト出演した。11月25日、星光現場音楽庁で行なわれた「鼓舞飛揚 - 第1届鼓手中国.鼓吧鼓友会」のライブに、瀾办得楽隊を率いて参加した。

2008年8月31日、星光現場音楽庁で行なわれた「鼓舞飛揚 - 鼓手中国08金秋鼓友会」に王瀾與瀾办得楽隊として参加した。

2010年4月1日、MAOで行われた陳勁の3rdアルバム発表会に、梁龍呉澤琨單小帆余偉民と共に参加した。

外部リンク

  1. 中国語
    公式サイト。
  2. UTF-8
    公式BLOG。