眼鏡蛇楽隊

提供:Chinese Rock Database
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基本情報
発音転記 イェヌジンショ
出身地 北京市
ジャンル オルタナティブハードロック
活動期間 1989年5月 -
メンバー 王暁芳
肖楠


(写真:)

眼鏡蛇楽隊(イェヌジンショ、Yanjingshe)は、1980年代末から2000年代前半にかけて、北京市で活動していたバンド。中国初のガールズロックバンドとして、国内外の多くのマスコミに取り上げられた。

メンバー

過去に在籍したメンバー

サポートメンバー

経歴

ガールズロックバンド。女子楽隊とも呼ばれる。1989年5月結成。メンバーは王曉芳(Dr&Vo)・揚英(B&Vo)・肖楠(G&Vo)・虞進(Key&Cho)の4人。結成当初は、洋楽や中国民間歌謡のカバーバンドとして活動していた。  1990年1月には四川省の成都で最初のコンサートを行う。2月には、“90現代音楽演唱会”に唐朝楽隊・呼吸楽隊・寶貝兄弟楽隊・1989楽隊・ADO楽隊とともに参加した。このコンサートでは女子楽隊と紹介された。また、この時参加したバンドの中でオリジナルの曲を持っていなかったのは眼鏡蛇楽隊だけであったため、オリジナル曲の必要性を感じるようになる。5月、“深[土川]之春”コンサートに黒豹楽隊・呼吸楽隊・1989楽隊・常寛とともに参加する。7月には、林雪(Sax&flute)が加入し、それを前後して創作活動を始める。

 1991年12月には、山西省太原で唐朝楽隊・呼吸楽隊・超載楽隊・1989楽隊等のバンドとともにコンサートを行った。

 1992年3月8日には、国際会議庁で行われたコンサートに参加、オリジナル曲を5曲ほど発表したが、音楽スタイルに統一性が無いとして、不評だった。


1999年2月以降のメンバー 左から:肖楠(G&Vo)・虞進(Key&Cho)・所以(B)・王曉芳(Dr&Vo) (写真:新蜂音楽唱片)


 メンバーもそれを感じ、4月にベーシストが揚英から所以に交替になり、メンバーが王曉芳(Dr&Vo)・所以(B)・肖楠(G&Vo)・虞進(Key&Cho)・林雪(Sax&flute)と固定した後から、新たに曲を創作する。次第に、眼鏡蛇楽隊のスタイルが出来あがっていった。9月18日、秦皇島でアートフィルム『孩子 太陽 世界』の撮影に参加した。そしてこのフィルムに関連して「不是遊戯的年紀」をレコーディングしたが1993年になり、『中国大揺滾 - 献給国際減災十年』に収録され、許可も無く販売されてしまう。

 1993年1月、青島の匯泉体育館でライブを行った。2月には、ドイツ・ベルリンで行われた“中国前衛文化月間”に崔健らとともに参加、そしてドイツの4都市を巡演した。また、呉文光のドキュメンタリーフィルム『1966-我的紅衛兵時代』に出演し、主題曲「1966」を発表した。

 1994年、北京で初のアルバムのレコーディングを済ませた後、ミキシングとマスタリングを行うために再びドイツへ赴く。その後、ヨーロッパ各国で30回ほどライブを行った。そして、年内にはドイツのインディーズレーベルから『HYPOCRISY』を発売した。10月28日、軒豪夜総会でライブを行った。

1stアルバム時のメンバー 左から:虞進(Key&Cho)・所以(B)・王曉芳(Dr&Vo)・ 林雪(Sax&flute)・肖楠(G&Vo) (紅星生産社のサイトより)

 1995年5月には、紅星生産社と契約、10月には中国と香港で1stアルバムが発売となった。年末にはアルバム宣伝のために香港に赴く。  1996年、アメリカの“第二十一回密歇根(ミシガン)国際女子音楽節”に参加、またニューヨークの老舗ライブハウス・CBGB等でライブ活動を行う。同時にアメリカで『HYPOCRISY』を発売し、CNNの取材を受ける。

 中国初のガールズロックバンドとして、欧米のロックファンの注目を浴び、他の中国のバンドより多く海外公演を行った。しかし、音楽的には未成熟なところがあり、アルバムの売り上げは他のバンドと比べると劣っていた。

 1996年から1998年までは、北京のライブハウスや、地方でのコンサートを続けた。

 1998年3月には、ニューアルバムに向けてのDEMOを製作した。作品の数は16曲。6月、河南省新郷で行われた“第1回新郷揺滾音楽節”に参加した。年末には“澳門除夕晩会(アモイ大晦日の夕べ)”に参加した。

『HYPOCRISY』アメリカ盤のカバーデザインより


 1999年1月、紅星生産社との契約が切れ、2月には長年共に活動し続けた林雪が脱退し、調整期間に入る。8月になり、新蜂音楽と契約した。

 2000年2月18日には2ndアルバムを発売した。9月には、虞進が脱退した。同年後半からは活動停止中である。

 2001年、所以がオーストラリアに移住した。

 2003年になり活動を再開し、11月22日、豪運酒[ロ巴]で行われた“『吶喊 為了中国曾経的揺滾』アルバム発表会”に参加した。久々のライブであった。その後も活動しているが、大きなライブのみの参加である。

 2004年半ばになり、活動を再開した。メンバーは、王曉芳(Dr&Vo)・肖楠(G&Vo)・林那(B)・萬菲(Key)。8月7日、寧夏回族自治区銀川市の賀蘭山の麓で行われた“中国揺滾的光輝道路”大型音楽節に出演した。

1990年代前半の写真 (写真:書籍『揺滾夢尋』)

 2005年4月、北京HARD ROCK CAFEで行われたマレーシアテレビ主催のイベントに参加した。7月23・24日、西安の大唐芙蓉園紫雲楼広場で行われた“大唐芙蓉園2005流行音楽節”に参加した。


ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ソロ発表曲 

曲名アルバム名発表年備考

参加アルバム 

アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考

主要なライブ・コンサート

ガールズロックバンド。女子楽隊とも呼ばれる。1989年5月結成。メンバーは王曉芳(Dr&Vo)・揚英(B&Vo)・肖楠(G&Vo)・虞進(Key&Cho)の4人。結成当初は、洋楽や中国民間歌謡のカバーバンドとして活動していた。  1990年1月には四川省の成都で最初のコンサートを行う。2月には、“90現代音楽演唱会”に唐朝楽隊・呼吸楽隊・寶貝兄弟楽隊・1989楽隊・ADO楽隊とともに参加した。このコンサートでは女子楽隊と紹介された。また、この時参加したバンドの中でオリジナルの曲を持っていなかったのは眼鏡蛇楽隊だけであったため、オリジナル曲の必要性を感じるようになる。5月、“深[土川]之春”コンサートに黒豹楽隊・呼吸楽隊・1989楽隊・常寛とともに参加する。7月には、林雪(Sax&flute)が加入し、それを前後して創作活動を始める。

 1991年12月には、山西省太原で唐朝楽隊・呼吸楽隊・超載楽隊・1989楽隊等のバンドとともにコンサートを行った。

 1992年3月8日には、国際会議庁で行われたコンサートに参加、オリジナル曲を5曲ほど発表したが、音楽スタイルに統一性が無いとして、不評だった。


1999年2月以降のメンバー 左から:肖楠(G&Vo)・虞進(Key&Cho)・所以(B)・王曉芳(Dr&Vo) (写真:新蜂音楽唱片)


 メンバーもそれを感じ、4月にベーシストが揚英から所以に交替になり、メンバーが王曉芳(Dr&Vo)・所以(B)・肖楠(G&Vo)・虞進(Key&Cho)・林雪(Sax&flute)と固定した後から、新たに曲を創作する。次第に、眼鏡蛇楽隊のスタイルが出来あがっていった。9月18日、秦皇島でアートフィルム『孩子 太陽 世界』の撮影に参加した。そしてこのフィルムに関連して「不是遊戯的年紀」をレコーディングしたが1993年になり、『中国大揺滾 - 献給国際減災十年』に収録され、許可も無く販売されてしまう。

 1993年1月、青島の匯泉体育館でライブを行った。2月には、ドイツ・ベルリンで行われた“中国前衛文化月間”に崔健らとともに参加、そしてドイツの4都市を巡演した。また、呉文光のドキュメンタリーフィルム『1966-我的紅衛兵時代』に出演し、主題曲「1966」を発表した。

 1994年、北京で初のアルバムのレコーディングを済ませた後、ミキシングとマスタリングを行うために再びドイツへ赴く。その後、ヨーロッパ各国で30回ほどライブを行った。そして、年内にはドイツのインディーズレーベルから『HYPOCRISY』を発売した。10月28日、軒豪夜総会でライブを行った。

1stアルバム時のメンバー 左から:虞進(Key&Cho)・所以(B)・王曉芳(Dr&Vo)・ 林雪(Sax&flute)・肖楠(G&Vo) (紅星生産社のサイトより)

 1995年5月には、紅星生産社と契約、10月には中国と香港で1stアルバムが発売となった。年末にはアルバム宣伝のために香港に赴く。  1996年、アメリカの“第二十一回密歇根(ミシガン)国際女子音楽節”に参加、またニューヨークの老舗ライブハウス・CBGB等でライブ活動を行う。同時にアメリカで『HYPOCRISY』を発売し、CNNの取材を受ける。

 中国初のガールズロックバンドとして、欧米のロックファンの注目を浴び、他の中国のバンドより多く海外公演を行った。しかし、音楽的には未成熟なところがあり、アルバムの売り上げは他のバンドと比べると劣っていた。

 1996年から1998年までは、北京のライブハウスや、地方でのコンサートを続けた。

 1998年3月には、ニューアルバムに向けてのDEMOを製作した。作品の数は16曲。6月、河南省新郷で行われた“第1回新郷揺滾音楽節”に参加した。年末には“澳門除夕晩会(アモイ大晦日の夕べ)”に参加した。

『HYPOCRISY』アメリカ盤のカバーデザインより


 1999年1月、紅星生産社との契約が切れ、2月には長年共に活動し続けた林雪が脱退し、調整期間に入る。8月になり、新蜂音楽と契約した。

 2000年2月18日には2ndアルバムを発売した。9月には、虞進が脱退した。同年後半からは活動停止中である。

 2001年、所以がオーストラリアに移住した。

 2003年になり活動を再開し、11月22日、豪運酒[ロ巴]で行われた“『吶喊 為了中国曾経的揺滾』アルバム発表会”に参加した。久々のライブであった。その後も活動しているが、大きなライブのみの参加である。

 2004年半ばになり、活動を再開した。メンバーは、王曉芳(Dr&Vo)・肖楠(G&Vo)・林那(B)・萬菲(Key)。8月7日、寧夏回族自治区銀川市の賀蘭山の麓で行われた“中国揺滾的光輝道路”大型音楽節に出演した。

1990年代前半の写真 (写真:書籍『揺滾夢尋』)

 2005年4月、北京HARD ROCK CAFEで行われたマレーシアテレビ主催のイベントに参加した。7月23・24日、西安の大唐芙蓉園紫雲楼広場で行われた“大唐芙蓉園2005流行音楽節”に参加した。


外部リンク

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