黒豹楽隊

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黒豹楽隊
Heibao 61.jpg
2013年の写真。(写真:人民网天津视窗
基本情報
中国語名(簡体字) 黑豹
中国語名(繁体字) 黑豹
拼音 Heibao
発音転記 ヘイバオ
英語名・外国語名 通常:BLACK PANTHER
1999年:BLACK LEOPARD
普天同慶娯楽契約期間:HOT-BLOODED POWER
出身地 北京市
ジャンル ハードロック
活動期間 1987年 -
メンバー 張淇
李彤
王文傑
趙明義
恵鵬
2005年3月のメンバー。左から:趙明義李彤・張克芃・王文傑恵鵬
1stアルバムの頃。手前が竇唯
2000年12月24日、温州体育館で行なわれたコンサートより。
4thアルバム用に撮られた写真。左から:馮小波王文傑趙明義李彤秦勇
竇唯脱退後のメンバー。左から:趙明義王文傑李彤巒樹。雑誌『環球歌壇 中外明星画刊』(中国電影出版社、1992年)より。(写真提供:幸治隆子さん)
1999年後半からのメンバー。左から:李彤趙明義秦勇恵鵬王文傑

黒豹楽隊(ヘイバオ、Heibao)は、北京市で活動しているバンド。中国人・華僑の中で最もアルバムが売れたバンドである。

メンバー

過去に在籍したメンバー

サポートメンバー

  • FUNKY末吉 ドラム(1990年6月4日)
  • 王勇 キーボード(1992年5月 - 1993年?)
  • 秦琦 ボーカル(1991年10月) -- バンドにスタイルが合わないため、未加入。
  • 馬克塔勒 ボーカル(1991年後半) -- バンドにスタイルが合わないため、正式加入はしなかった。一度だけライブを行なった。
  • 鄭鈞 ボーカル(1993年) -- バンドにスタイルが合わないため、正式加入はしなかった。
  • 欒述偉 ボーカル(1994年) -- バンドにスタイルが合わないため、正式加入はしなかった。
  • 劉崢嶸 ボーカル(1994年) -- バンドにスタイルが合わないため、正式加入はしなかった。

マネージャー

経歴

中国バンドの頂点へ

1987年、沙棘芸術団が改名した。李彤が名付け親であった。1988年、丁武が脱退し、活動が休止となりかけた頃、巒樹竇唯をメンバーに加え、活動を再開した。しかし、この頃は金もなく、演奏する設備もなく、メンバーの心は黒豹楽隊から別のところにあった。マネージャー郭伝林のおかげでどうにか、天安門事件後の困難を乗り切る。

1990年、メンバーが竇唯李彤王文傑趙明義巒樹となり、固定した。この時、最初のオリジナル作品「脸谱」を創作する。5月、'90深圳之春コンサートに参加し、ここで大好評を博した。そして、黒豹楽隊は多くのメディアから注目を浴びるようになった。この成功で、香港勁石公司滾石公司の香港子会社)との契約交渉が始まる。

1991年、香港勁石公司と契約し、2ヶ月の間にレコーディングを行なったほか、ミュージックビデオを制作する。8月になり、香港台湾で1stアルバム『黒豹』が発売となった。9月には、「Don't Break My Heart」が香港の音楽ランキングで、3週ほど1位に輝き、「大陸で最も優秀なロックバンド」と称される。間もなくして台湾滾石唱片ROCK RECORDS)と契約する。

1992年12月、中国でもアルバムが発売されることとなるが、中国盤が発売されるまでの1年の間に、大陸中で多くの海賊盤が出回ってしまう。1stアルバムは、正規盤で150万本の大ヒットとなるが、海賊盤も同じくらいの本数が出回ってしまった。海賊盤に対し、レコード会社の対応に煮え切らないメンバーは滾石唱片との契約を破棄した。

当時、中国国内における、中国人によるロックアルバムは崔健しか発売していなかったため、ロックを知らない人々がこぞって彼らのアルバムに興味を示したことが売れた要因であろう。もちろん、アルバムの完成度は香港台湾でも注目を受けるほど、とても高いものであった。このアルバムの売上を超えたバンドは彼ら以前にも以後にも存在しない。当時、黒豹人気は彼らの知らないところにまで広まっており、雲南省吉林省長春市では黒豹楽隊の名前を騙ったバンドが出現、かってにコンサートを開くほどであった。

このように、人気は絶頂であったが、1991年10月、突然竇唯が脱退してしまう。その後、巒樹ボーカルを担当することになった。

1993年8月、2ndアルバム『光芒之神』が発売となった。

日本の会社によるプロデュースへ

1994年4月には、日本のJVCと契約した。同年、巒樹が脱退し、秦勇ボーカリストとしてメンバーに加わり、「光芒之神」を新しくレコーディングし直したニューバージョンの『光芒之神』を発売した。

1996年2月には、3rdアルバム『無是無非』がアジア地区で同時発売となる。1ヶ月足らずで、45万本を販売した。3月には、来日して東京のライブハウスで単独ライブを行ない、日本の音楽界に黒豹楽隊の存在を知らしめた。やがて、マネージメントはJVCから独立した竹書文化が行なうようになった。

1997年には、全国60都市で公演する。

1998年5月、4thアルバム『不能譲我的煩悩没有機会表白』がアジア地区で同時発売となった。

2000年の春節(旧正月)過ぎから5月までの3回、テレビ・中央電視台の番組『音画時尚』に出演し、「桑塔露琪亚」(サンタルチア)を演奏した。中央電視台への出演は、ロックバンドとしては快挙であった。

JVC及び竹書文化との契約時に手がけた3枚のアルバム(2ndアルバムを含む)の完成度や売り上げはそれほど悪いものではなかったが、1stアルバムの売り上げや人気を超えられず、また黒豹楽隊に対する過度の期待や、音楽評論家達による音楽的な分析よりも竇唯秦勇の比較をメインとした評論になってしまったため、結果的に竇唯時代を超えることができなかったことが、黒豹楽隊の人気を落とすきっかけとなってしまった。

最古参のロックバンドとして

2002年、北京麒麟童文化と契約する。

2004年7月、5thアルバム『黒豹V』が発売となった。

2005年3月、秦勇が脱退し、張克芃がボーカリストとして加入した。

張克芃はもともとロックミュージシャンではないほか、新曲もあまり無く、過去に発表した作品をコンサートで披露するような状態が続く形となり、ロック的な要素はどんどん薄れていってしまった。また、メンバーのサイドビジネスが好調なことから、黒豹楽隊の活動は次第に減ってしまった。それでも黒豹楽隊の曲を知っている人々は多いため、地方では数千人規模のホールを満員にさせるだけの人気を博していた。

2008年、普天同慶娯楽と契約した。

2012年5月24日、豊華秋実伝媒有限公司と契約した。

2013年3月、張淇が新しくボーカリストになった。メンバーの平均年齢から比べると若いボーカリストであるため、若い音楽ファンからも再び注目を浴びるようになる。7月16日、6枚目のアルバム『我們是誰』を発表した。9年振りのアルバムであった。

2017年4月21日、7thアルバム『本色』が発売となった。

ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

プロモーション・シングル

ソロ発表曲 

テンプレート:Solo List 50

参加アルバム 

アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考
豹妹把轻松交给我英雄無悔・選択堅強1996演奏李小燕の1stアルバムとはクレジットが異なる。新たにレコーディングしたものか
豹妹回到梦中英雄無悔・選択堅強1996演奏李小燕の1stアルバムとはクレジットが異なる。新たにレコーディングしたものか
楽駅楽隊无地自容1998詞曲カバー
複数既然我们是兄弟既然我們是兄弟1999ボーカル(複数で)非売品
郭峰怀抱懐抱1999バックボーカル(複数で)非売品
郭峰怀抱経典郭峰2000バックボーカル(複数で)▼MVも
陳琳生日心愿陳琳2000演奏クレジットにはないが、黒豹楽隊が演奏
輪回楽隊赶圩归来啊哩哩我的太陽2002/2改編(輪回楽隊と)
郭峰・黒豹楽隊・零点楽隊心手牵连2002演奏2002年全国アイススケート主題曲▽アルバム未収録
複数中国足球战歌中国足球戦歌2002ボーカル(複数で)CD・VCDのセットで発売
天堂之門楽隊无地自容第二届附中現代音楽節2007/7詞曲

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考
VCD走近黒豹2000インタビューオリジナルインタビューを海賊盤VCDに収録
テレビ手拉手同一首歌 新北京新奥運 北京申辦2008奥運会2001演奏(唐朝楽隊輪回楽隊零点楽隊蛍火虫楽隊と)2008年オリピック誘致運動コンサートより▼海賊盤VCDあり

主要なライブ・コンサート

外部リンク