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(ハヤト、1983年11月1日-)は、[[日本]]の[[岡山県]]出身で、[[北京]]在住の[[ドラマー]]。痩人楽隊のメンバーである。
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(ハヤト、1983年11月1日-)は、[[日本]]の[[岡山県]]出身で、[[北京]]在住の[[ドラマー]]。[[痩人楽隊]]のメンバーである。
  
 
== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
 
本名は木藤隼人。[[1983年]]11月1日生まれ。3歳の時から[[ドラム]]の勉強を開始し、中学生の時を除いてずっとドラムを叩き続ける。
 
本名は木藤隼人。[[1983年]]11月1日生まれ。3歳の時から[[ドラム]]の勉強を開始し、中学生の時を除いてずっとドラムを叩き続ける。
  
[[2002年]]の夏から北京に[[留学]]し、同年、[[留学生]]と共にバンド・ARMYを結成し、ドラムを担当する。
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[[2002年]]の夏から北京に[[留学]]し、同年、[[留学生]]と共にバンド・[[ARMY]]を結成し、ドラムを担当する。
  
[[2003年]]、[[NONEED70'S楽隊]]に加入した。よく練習で使っている練習スタジオの[[劉立新]]から声をかけられ、[[軍械所楽隊]]に加入した。7月、[[留学生]]同士で結成したバンドのライブに、たまたまライブを見に来ていた[[痩人楽隊]]の[[戴秦]]が彼のドラムテクニックに一目ぼれをして、それがきっかけで痩人楽隊に加入することになった。それと共に軍械所楽隊とNONEED70'S楽隊を脱退し、本格的なバンド活動を痩人楽隊一本にした。
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[[2003年]]、[[NONEED70'S楽隊]]に加入した。よく練習で使っている練習スタジオの[[劉立新]]から声をかけられ、[[軍械所楽隊]]に加入した。7月、[[留学生]]同士で結成したバンドのライブに、たまたまライブを見に来ていた[[痩人楽隊]]の[[戴秦]]が彼のドラムテクニックに一目ぼれをして、それがきっかけで[[痩人楽隊]]に加入することになった。それと共に[[軍械所楽隊]]と[[NONEED70'S楽隊]]を脱退し、本格的なバンド活動を痩人楽隊一本にした。
  
痩人楽隊が解散するまで痩人楽隊で活動し続けたいというほど、痩人楽隊に対する強い意気込みを持っている。肝心のドラムテクニックも優れており、周りからの評判はとても高く、他のバンドからも頻繁に誘いがくるほどである。
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[[痩人楽]]隊が解散するまで[[痩人楽隊]]で活動し続けたいというほど、[[痩人楽隊]]に対する強い意気込みを持っている。肝心のドラムテクニックも優れており、周りからの評判はとても高く、他のバンドからも頻繁に誘いがくるほどである。
  
 
[[2005年]]、ドラムメーカー・[[カノウプス]]の[[エンドーザー]]となった。
 
[[2005年]]、ドラムメーカー・[[カノウプス]]の[[エンドーザー]]となった。

2010年6月1日 (火) 17:43時点における版

(ハヤト、1983年11月1日-)は、日本岡山県出身で、北京在住のドラマー痩人楽隊のメンバーである。

経歴

本名は木藤隼人。1983年11月1日生まれ。3歳の時からドラムの勉強を開始し、中学生の時を除いてずっとドラムを叩き続ける。

2002年の夏から北京に留学し、同年、留学生と共にバンド・ARMYを結成し、ドラムを担当する。

2003年NONEED70'S楽隊に加入した。よく練習で使っている練習スタジオの劉立新から声をかけられ、軍械所楽隊に加入した。7月、留学生同士で結成したバンドのライブに、たまたまライブを見に来ていた痩人楽隊戴秦が彼のドラムテクニックに一目ぼれをして、それがきっかけで痩人楽隊に加入することになった。それと共に軍械所楽隊NONEED70'S楽隊を脱退し、本格的なバンド活動を痩人楽隊一本にした。

痩人楽隊が解散するまで痩人楽隊で活動し続けたいというほど、痩人楽隊に対する強い意気込みを持っている。肝心のドラムテクニックも優れており、周りからの評判はとても高く、他のバンドからも頻繁に誘いがくるほどである。

2005年、ドラムメーカー・カノウプスエンドーザーとなった。

2006年12月、羽・泉のライブサポートを務めた。