「徐寧(桂林市)」の版間の差分

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== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
  
 桂林のロックアーティスト。あだ名は猴子。1983年から1988年にかけて、音楽理論の基礎を勉強する。1989年、香港台湾の流行音楽が好きになった。1992年、中国にロックがあることを初めて知り、自分自身の新たなクールな一面を探し始めた。1993年、狂ったようにロックにハマり、自分のスタイルを確立していった。1994年から桂林や深[土川]で演奏しながらお金を稼いだ。その頃、欧米のポップロックやラップなどを大量に聴いていた。
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1983年から1988年にかけて、音楽理論の基礎を勉強する。1989年、[[香港]][[台湾]]の流行音楽が好きになった。1992年、中国に[[ロック]]があることを初めて知り、自分自身の新たなクールな一面を探し始めた。1993年、狂ったように[[ロック]]にハマり、自分のスタイルを確立していった。
 1996年、N楽隊を結成するが、同年解散してしまった。
 
  
 1997年、地平綫楽隊でボーカルを務めた。
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1994年から[[広西チワン族自治区]][[桂林市]]や[[広東省]][[深圳市]]で演奏しながらお金を稼いだ。その頃、欧米の[[ポップロック]]や[[ラップ]]などを大量に聴いていた。
  
 1998年、紅酒[ロ巴]でバー専属歌手となり、流行音楽を弾き語りで演奏していた。同年、sonic聲音楽隊に加入し、ボーカルを担当したが、sonic聲音楽隊は解散してしまった。
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1996年、[[N楽隊]]を結成するが、同年解散してしまった。
  
 1999年、オムニバス『洪水猛獣』に作品が収録された。この時は、Xと名乗った。同年、N楽隊の活動が再開となった。
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1997年、[[地平線楽隊(桂林市)|地平線楽隊]]で[[ボーカル]]を務めた。
  
 2000年、N楽隊は娠楽隊と改名した。同年、音巣楽府練習スタジオを開き、この時に観音閣というインディーズアルバム専門店も開いた。
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1998年、[[紅酒吧]]で[[ライブバー専属歌手]]となり、流行音楽を弾き語りで演奏していた。同年、[[sonic声音楽隊]]に加入し、[[ボーカル]]を担当したが、[[sonic声音楽隊]]は解散してしまった。
 
  
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1999年、[[オムニバス・アルバム]]『[[洪水猛獣]]』に作品が収録された。この時は、Xと名乗った。同年、[[N楽隊]]の活動が再開となった。
  
初めてテクノライブを行った時
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2000年、[[N楽隊]]は[[娠楽隊]]と改名した。同年、[[音巣楽府]]練習スタジオを開き、この時に[[観音閣]]というインディーズアルバム専門店も開いた。
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2001年、[[娠楽隊]]は解散となった。同年、[[大西瓜楽隊]]に加入した。5月4日、[[塞亜運動吧]]でライブを主催したが、[[桂林市]]で初めて500枚を超えるチケットを販売した。同年、[[蔵音閣]]を自分の家に開いた。
  
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2002年、[[数学方程式楽隊]]のライブサポートを務めた。同年、母親が病気となり、金銭的に足りなくなったため、全ての楽器を売り、[[パソコン]]だけ手元に残した。そこから、[[パソコン]]で音楽を制作するようになる。同年12月、[[パソコン]]でインディーズアルバム『[[未知(X)|未知]]』を手がけて発表した。
  
 2001年、娠楽隊は解散となった。同年、大西瓜楽隊に加入した。5月4日、塞亜運動[ロ巴]でライブを主催したが、桂林で初めて500枚を超えるチケットが販売となった。同年、蔵音閣音像店を自分の家に開いた。
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[[桂林ロック]]を代表する人物であるが、家庭の事情もあり、[[ロック]]を辞め、[[サウンドアーティスト]]や[[DJ]]として活動を始めたほか、ライブを企画したり、アンダーグラウンド文化を広めたりなど、[[桂林ロック]]に大きく貢献している人物である。
 2002年、数學方程式楽隊のライブサポートを務めた。同年、母親が病気となり、金銭的に足りなくなったため、全ての楽器を売り、パソコンだけ手元に残した。そこから、パソコンで音楽を制作するようになる。同年末、パソコンでインディーズアルバム『未知』を手がけた。この時、X名義で発表した。
 
  
 桂林ロックを代表する人物であるが、家庭の事情もあり、ロックを辞め、テクノアーティストやDJとして活動を始めたほか、ライブを企画したり、インディーズ文化を広めたりなど、桂林ロックに大きく貢献している人物である。
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2003年2月、[[蔵音閣]]を正陽歩行街正陽広場に開いた。
  
 2003年2月、蔵音閣音像店を正陽歩行街正陽広場に開いた。9月、CD付雑誌『我愛揺滾楽23』に曲が収録された。
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2004年5月、[[蔵音閣]]を正陽歩行街正陽広場内の別な場所に移転させた。また、この頃から[[コンピューターミュージック]]を新たに勉強し始めた。
 
  
555演舞台でのライブ
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2006年、[[X-MIX]]名義で[[桂林市]]や[[桂林市]][[陽朔県]]のバーでレイブパーティーを開いた。
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 2004年5月、蔵音閣音像店を正陽歩行街正陽広場内の別な場所に移転させた。また、この頃からコンピューターミュージックを勉強し始めた。11月20日、牛尾[ロ巴]で行われたオーストラリアの実験テクノアーティスト・Hetleveikerのライブの前座を務めた。
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2007年、[[蔵音閣]]が文化部によって潰され、再度地下に潜って経営することになった。1月19日にライブを行なった時は、[[DJ MONKEY]]と名乗った。同年、[[愛渇死]]の名義で、即興アルバム『屎宴頻音道』を完成させた。また、悟X空の名義で、『七十二変REMIX』の2/3のリミックスを手がけた。また、Xの名義で『旋』・『和』・『律』の3枚のアルバムの2/3のストーリー型テクノ作品を完成させた。
 2005年3月5日、牛尾[ロ巴]で行われたオランダのインダストリアルノイズアーティスト・C-drikのライブの前座を務めた。6月18日、山頂洞迷[イ尓]高爾夫倶楽部でライブを行った。9月3日、頂洞[ロ巴]でライブを行ったが、この時はDJ Monkeyとして参加した。3月、DJ MONKEYとのSPLITアルバム『RECYCLE THE BROKEN SOUNDS』が発売となった。
 
  
 2006年、X-MIX名義で桂林や陽朔のバーでテクノパーティーを開いた。11月、オムニバス『什麼是現代? 革命? 様板?』に曲を発表した。
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2008年、イベント主催団体・[[音楽生活倶楽部]]を設立した。
 
 
 2007年、インディーズアルバムなどを多く販売していた蔵音閣が文化部によって潰され、再度地下に潜って経営することになった。1月19日、算了[ロ巴]でPNFやRonezと共にライブを行った。この時は、DJ MONKEYと名乗った。3月、Ronezとの共作アルバム『RECYCLE THE BROKEN SOUNDS』が発売となった。5月、1月19日のライブが『LIVE IN FORGETIT BAR GUILIN』として発売となった。同年、愛渇死の名義で、即興阿る場無『屎宴頻音道』を完成させた。また、悟X空の名義で、『七十二変REMIX』の2/3のリミックスを手がけた。また、Xの名義で『旋』・『和』・『律』の3枚のアルバムの2/3のストーリー型テクノ作品を完成させた。11月9日、蔵音閣でライブを行った。
 
 
 
 2008年4月5日、MUSIC LIFE CLUBでライブを行った。同年、イベント主催団体・MUSIC LIFE CLUBを設立した。
 
 
 
 2009年9月25日、MUSIC LIFE CLUBがライブハウスとして誕生した。
 
 
  
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2009年9月25日、[[音楽生活倶楽部]]がライブハウスとして誕生した。
  
 
== ディスコグラフィー ==
 
== ディスコグラフィー ==
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=== スタジオ・アルバム ===
 
=== スタジオ・アルバム ===
  
*X '''[[未知(X)|未知]]'''(2002年12月)
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*X '''[[未知(X)|未知]]'''(2002年12月) -- [[パソコン]]で創作。
  
 
=== コラボレーション・アルバム ===
 
=== コラボレーション・アルバム ===
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2016年12月23日 (金) 17:46時点における版

徐寧
Xuning(guilinshi) 11.jpg
初めてDJとしてライブを行なった時。(写真:14
基本情報
中国語名(簡体字) 徐宁
中国語名(繁体字) 徐寧
拼音 Xu Ning
発音転記 シュイ ニン
英語名・外国語名 X、X-MIX、DJ MONKEY
別名 猴子、愛渇死
出身地 広西チワン族自治区桂林市
担当楽器 ボーカルラップトップ
ジャンル ポップロックラップヒップホップエレクトロニカ
職業 ライブバー専属歌手DJ店舗経営者スタジオ経営者イベント企画者サウンドアーティストバー経営者
555演舞台でのライブ。(写真:14

徐寧(シュイ ニン、Xu Ning)は、広西チワン族自治区桂林市で活動しているDJ

経歴

1983年から1988年にかけて、音楽理論の基礎を勉強する。1989年、香港台湾の流行音楽が好きになった。1992年、中国にロックがあることを初めて知り、自分自身の新たなクールな一面を探し始めた。1993年、狂ったようにロックにハマり、自分のスタイルを確立していった。

1994年から広西チワン族自治区桂林市広東省深圳市で演奏しながらお金を稼いだ。その頃、欧米のポップロックラップなどを大量に聴いていた。

1996年、N楽隊を結成するが、同年解散してしまった。

1997年、地平線楽隊ボーカルを務めた。

1998年、紅酒吧ライブバー専属歌手となり、流行音楽を弾き語りで演奏していた。同年、sonic声音楽隊に加入し、ボーカルを担当したが、sonic声音楽隊は解散してしまった。

1999年、オムニバス・アルバム洪水猛獣』に作品が収録された。この時は、Xと名乗った。同年、N楽隊の活動が再開となった。

2000年、N楽隊娠楽隊と改名した。同年、音巣楽府練習スタジオを開き、この時に観音閣というインディーズアルバム専門店も開いた。

2001年、娠楽隊は解散となった。同年、大西瓜楽隊に加入した。5月4日、塞亜運動吧でライブを主催したが、桂林市で初めて500枚を超えるチケットを販売した。同年、蔵音閣を自分の家に開いた。

2002年、数学方程式楽隊のライブサポートを務めた。同年、母親が病気となり、金銭的に足りなくなったため、全ての楽器を売り、パソコンだけ手元に残した。そこから、パソコンで音楽を制作するようになる。同年12月、パソコンでインディーズアルバム『未知』を手がけて発表した。

桂林ロックを代表する人物であるが、家庭の事情もあり、ロックを辞め、サウンドアーティストDJとして活動を始めたほか、ライブを企画したり、アンダーグラウンド文化を広めたりなど、桂林ロックに大きく貢献している人物である。

2003年2月、蔵音閣を正陽歩行街正陽広場に開いた。

2004年5月、蔵音閣を正陽歩行街正陽広場内の別な場所に移転させた。また、この頃からコンピューターミュージックを新たに勉強し始めた。

2006年、X-MIX名義で桂林市桂林市陽朔県のバーでレイブパーティーを開いた。

2007年、蔵音閣が文化部によって潰され、再度地下に潜って経営することになった。1月19日にライブを行なった時は、DJ MONKEYと名乗った。同年、愛渇死の名義で、即興アルバム『屎宴頻音道』を完成させた。また、悟X空の名義で、『七十二変REMIX』の2/3のリミックスを手がけた。また、Xの名義で『旋』・『和』・『律』の3枚のアルバムの2/3のストーリー型テクノ作品を完成させた。

2008年、イベント主催団体・音楽生活倶楽部を設立した。

2009年9月25日、音楽生活倶楽部がライブハウスとして誕生した。

ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

コラボレーション・アルバム

ソロ発表曲 

曲名アルバム名発表年備考
(タイトル不明)洪水猛獣1999アーティスト名はX
工业游戏C我愛揺滾楽232003/9
the rage of revolution什麼是現代? 革命? 様板?2006/11アーティスト名はX.M.X


主要なライブ・コンサート

外部リンク

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