「孫竭」の版間の差分
(→経歴) |
|||
(同じ利用者による、間の4版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox Musician | {{Infobox Musician | ||
| name = 孫竭 | | name = 孫竭 | ||
− | | image = | + | | image = [[Image:Sunjie_11.jpg|center|220px]] |
− | | iamge_caption = | + | | iamge_caption = 2006年頃の写真。(写真:[http://www.sohu.com/a/300054360_773022 菲米亚高端留学]) |
| chinesename_jiantizi = 孙竭 | | chinesename_jiantizi = 孙竭 | ||
| chinesename_fantizi = 孫竭 | | chinesename_fantizi = 孫竭 | ||
28行目: | 28行目: | ||
== 経歴 == | == 経歴 == | ||
− | + | 4歳の頃から[[ピアノ]]を勉強していた。8歳で楽譜を書くようになる。12歳の時、初ライブを行なった。 | |
1980年10月、[[日本]]のゴダイゴの天津コンサートを見に行き、そこで初めてロックに触れ、また生で[[ギター]]演奏を見たのも初めてであった。その後、父方の叔父さんの天津産の鸚鵡ブランドの[[アコースティックギター]]を借りて[[ギター]]練習を始めた。やがて、両親から上海産の美声[[エレクトリックギター]]を購入してもらい、また隣の家のお兄さんからステレオをアンプに改造してもらい、一通り設備が揃うことになった。やがて、母方の伯父さんより当時有名な[[ギタリスト]]・張勇を紹介してもらい、彼から教えてもらうために、毎月1回上京して[[ギター]]を勉強した。やがて、海政歌舞団に入団し、そこで初めて外国製の[[ギター]]やアンプを使うようになる。その後、海政歌舞団を辞めて、東方歌舞団に入団した。ちなみに孫竭が退団した後、海政歌舞団に入団したのは[[老五]]であった。 | 1980年10月、[[日本]]のゴダイゴの天津コンサートを見に行き、そこで初めてロックに触れ、また生で[[ギター]]演奏を見たのも初めてであった。その後、父方の叔父さんの天津産の鸚鵡ブランドの[[アコースティックギター]]を借りて[[ギター]]練習を始めた。やがて、両親から上海産の美声[[エレクトリックギター]]を購入してもらい、また隣の家のお兄さんからステレオをアンプに改造してもらい、一通り設備が揃うことになった。やがて、母方の伯父さんより当時有名な[[ギタリスト]]・張勇を紹介してもらい、彼から教えてもらうために、毎月1回上京して[[ギター]]を勉強した。やがて、海政歌舞団に入団し、そこで初めて外国製の[[ギター]]やアンプを使うようになる。その後、海政歌舞団を辞めて、東方歌舞団に入団した。ちなみに孫竭が退団した後、海政歌舞団に入団したのは[[老五]]であった。 | ||
34行目: | 34行目: | ||
東方歌舞団に入団してからは[[北京市]]でいろいろなアンダーグラウンドバンドと知り合いになり、海外のライブ映像などを見ながら[[ギター]]テクニックを磨いていった。ただ、仕事が忙しく、1年のうち8か月も地方巡業の時があり、バンドに正式に加入することがなかった。そのため、[[ギター]]は弾いても純粋なロックミュージシャンにではないと思っている。 | 東方歌舞団に入団してからは[[北京市]]でいろいろなアンダーグラウンドバンドと知り合いになり、海外のライブ映像などを見ながら[[ギター]]テクニックを磨いていった。ただ、仕事が忙しく、1年のうち8か月も地方巡業の時があり、バンドに正式に加入することがなかった。そのため、[[ギター]]は弾いても純粋なロックミュージシャンにではないと思っている。 | ||
− | + | 1991年頃、[[零点楽隊]]に加入し、[[ギター]]を担当した。 | |
1992年、家庭の事情で[[天津市]]に戻ることになり、[[零点楽隊]]を脱退した。 | 1992年、家庭の事情で[[天津市]]に戻ることになり、[[零点楽隊]]を脱退した。 | ||
42行目: | 42行目: | ||
1996年、[[目撃者楽隊(北京市)|目撃者楽隊]]は活動休止となった。同年から劉暁梅と于東、2人の女性歌手と一緒にグループを結成した。 | 1996年、[[目撃者楽隊(北京市)|目撃者楽隊]]は活動休止となった。同年から劉暁梅と于東、2人の女性歌手と一緒にグループを結成した。 | ||
− | 2000年7月、[[アメリカ]]に移住し、[[ | + | 2000年7月、[[アメリカ]]に移住し、[[アメリカ]][[華僑]]となった。 |
− | やがて、[[アメリカ]] | + | やがて、[[アメリカ]]のJVS影視娯楽公司の総経理となり、JVS楽隊で[[キーボード]]を務めているほか、多くの歌手の[[アメリカ]]コンサートの[[プロデューサー]]や[[ディレクター]]を担当した。 |
== ディスコグラフィー == | == ディスコグラフィー == | ||
86行目: | 86行目: | ||
| description05 = | | description05 = | ||
}} | }} | ||
+ | |||
+ | == 主要なライブ・コンサート == | ||
+ | |||
+ | *1996年 [[デンマーク]]・コペンハーゲン 丹麦国際民間芸術節 最優秀パフォーマンス賞 | ||
{{DEFAULTSORT:Sunjie}} | {{DEFAULTSORT:Sunjie}} | ||
97行目: | 101行目: | ||
[[Category:ギタリスト]] | [[Category:ギタリスト]] | ||
[[Category:キーボーディスト]] | [[Category:キーボーディスト]] | ||
+ | [[Category:デンマーク]] | ||
[[Category:アメリカ]] | [[Category:アメリカ]] | ||
[[Category:歌舞団団員]] | [[Category:歌舞団団員]] |
2019年8月3日 (土) 04:09時点における最新版
孫竭 | |
---|---|
2006年頃の写真。(写真:菲米亚高端留学) | |
基本情報 | |
中国語名(簡体字) | 孙竭 |
中国語名(繁体字) | 孫竭 |
拼音 | Sun Jie |
発音転記 | スヌ ジエ |
出身地 | 天津市 |
担当楽器 | キーボード・ギター |
ジャンル | 歌舞団団員・プロダクション経営者・プロデューサー・ディレクター |
孫竭(スヌ ジエ、Sun Jie)は、天津市出身で、アメリカで活動しているプロダクション経営者。かつて北京市でも活動していた。
経歴
4歳の頃からピアノを勉強していた。8歳で楽譜を書くようになる。12歳の時、初ライブを行なった。
1980年10月、日本のゴダイゴの天津コンサートを見に行き、そこで初めてロックに触れ、また生でギター演奏を見たのも初めてであった。その後、父方の叔父さんの天津産の鸚鵡ブランドのアコースティックギターを借りてギター練習を始めた。やがて、両親から上海産の美声エレクトリックギターを購入してもらい、また隣の家のお兄さんからステレオをアンプに改造してもらい、一通り設備が揃うことになった。やがて、母方の伯父さんより当時有名なギタリスト・張勇を紹介してもらい、彼から教えてもらうために、毎月1回上京してギターを勉強した。やがて、海政歌舞団に入団し、そこで初めて外国製のギターやアンプを使うようになる。その後、海政歌舞団を辞めて、東方歌舞団に入団した。ちなみに孫竭が退団した後、海政歌舞団に入団したのは老五であった。
東方歌舞団に入団してからは北京市でいろいろなアンダーグラウンドバンドと知り合いになり、海外のライブ映像などを見ながらギターテクニックを磨いていった。ただ、仕事が忙しく、1年のうち8か月も地方巡業の時があり、バンドに正式に加入することがなかった。そのため、ギターは弾いても純粋なロックミュージシャンにではないと思っている。
1992年、家庭の事情で天津市に戻ることになり、零点楽隊を脱退した。
1994年、再度上京した。その頃は、カラオケソングの依頼が入り、1996年以前のカラオケのオリジナルビデオクリップ以外は、ほぼ全て孫竭が弾いていると言われているほど、多くの曲に参加した。1月、目撃者楽隊を結成した。
1996年、目撃者楽隊は活動休止となった。同年から劉暁梅と于東、2人の女性歌手と一緒にグループを結成した。
やがて、アメリカのJVS影視娯楽公司の総経理となり、JVS楽隊でキーボードを務めているほか、多くの歌手のアメリカコンサートのプロデューサーやディレクターを担当した。
ディスコグラフィー
参加アルバム
アーティスト・バンド名 | 曲名 | アルバム名 | 発表年 | 参加形態 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
目撃者楽隊 | 胖子的烦恼 | 中国揺滾経典 | 1995 | 詞曲、ボーカル、ギター(龔鳴と)、キーボード |
主要なライブ・コンサート
- 1996年 デンマーク・コペンハーゲン 丹麦国際民間芸術節 最優秀パフォーマンス賞