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1997年には、[[北京迷笛音楽学校]]で[[ギター]]講師を務めた。また同年初、[[杭天]]と[[イタリア人]]のCLAUDIOと知り合いになり、5月から彼らとともに[[胡同藍調楽隊]]を結成し、ライブを始めた。同年末からオリジナル作品を発表し続けるが、[[日本]]へ帰国となり、バンドは解散となった。
 
1997年には、[[北京迷笛音楽学校]]で[[ギター]]講師を務めた。また同年初、[[杭天]]と[[イタリア人]]のCLAUDIOと知り合いになり、5月から彼らとともに[[胡同藍調楽隊]]を結成し、ライブを始めた。同年末からオリジナル作品を発表し続けるが、[[日本]]へ帰国となり、バンドは解散となった。
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2000年、[[日本]]でBOBO STOMPに加入した。
  
 
2008年、久々に[[廈門市]]でライブを行なった。
 
2008年、久々に[[廈門市]]でライブを行なった。

2019年3月7日 (木) 18:34時点における版

大澤寛
Osawa 11.jpg
2008年1月のライブポスター。(写真:嶺上歳月
基本情報
中国語名(簡体字) 大泽宽
中国語名(繁体字) 大澤寬
拼音 Daze Kuan
発音転記 ダゼォ クアヌ
出身地 日本
担当楽器 ギター
ジャンル ブルース
職業 音楽学校講師
2018年の写真。(写真:蒙古音乐网

大澤寛は、かつて北京市福建省廈門市で活動していた日本人ギタリスト

経歴

ギターを弾いて20数年になる。やがて、YAMAHAのアジア地区担当となる。

1992年、福建省廈門市で生活しており、同年、廈門大学ギター協会が設立される。そこで、ギターを学生達に教えた。協会のメンバーには、潘立飛がいた。

1995年は北京市で生活しており、郭智勇などにブルースギター演奏を教えていた。

1997年には、北京迷笛音楽学校ギター講師を務めた。また同年初、杭天イタリア人のCLAUDIOと知り合いになり、5月から彼らとともに胡同藍調楽隊を結成し、ライブを始めた。同年末からオリジナル作品を発表し続けるが、日本へ帰国となり、バンドは解散となった。

2000年、日本でBOBO STOMPに加入した。

2008年、久々に廈門市でライブを行なった。

主要なライブ・コンサート