「姜北生」の版間の差分

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2005年には[[河北省]][[石家荘市]][[壊罐頭楽隊]][[自由登陸楽隊]][[ドラム]]を担当した。
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{{Infobox Musician
 
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| name                = 姜北生
[[環球唱片]]の録音部の経理(マネージャー)である。また、[[十三月唱片]][[プロデューサー]]などを務めた。
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| image                = [[Image:Jiangbeisheng_11.jpg|center|290px]]
 
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| iamge_caption        = 2020年の写真。(写真:[http://mp.weixin.qq.com/s/om0jDXbGr_vFPffxgWAnRg “南京市民李先生唱歌虽然难听,但做事太靠谱了”、无嘴鸭、大麦音乐])
 
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| chinesename_jiantizi = 姜北生
中学卒業の時、父親からギターを買ってもらい、やがて楽器販売店で練習している時にバンドを結成した。そしてボーカル兼ギターを担当した。またメンバーには李擎(Dr)がいた。練習場所は楽器販売店近くに借りた部屋の中であった。創作活動やロックを聴いている時が人生で最もアツい時であった。
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この頃からネットが発達し、
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| chinesename_katakana = ジアン ベイション
 
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网络的兴起让姜北生接触到了录音、混音的相关知识,从那个时候他就开始在网上学习,自个儿研究。
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| alias                =
高中学习任务重,姜北生爸爸看姜北生一门心思玩乐队,开始对给姜北生买琴这件事感到后悔。
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| born                = 1983年7月2日
 
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情况是这么个情况,放在音乐上的心一旦放出去就难收回来了,可谁都想上个好大学不是?
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2001年的夏天,姜北生的高中生活即将结束,面对未来,挺迷的。
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| origin              = [[河北省]]
 
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| instrument          = [[ボーカル]][[ギター]][[ドラム]]
“你长得挺帅的,要不学表演吧。”
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| occupation          = [[レコーディングエンジニア]][[プロデューサー]][[プロダクション経営者]]
乐队的吉他手对姜北生随口提了一句,他记在了心上。
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| influences          =
试试?
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01
 
 
 
姜北生找了张家口话剧团的一位老师,老师看姜北生没有表演基础,建议他主攻台词。
 
 
 
艺考的时候,姜北生背了一篇散文,用又像美声又像流行的腔调唱了一首猫王的《Love Me Tender》。
 
 
 
音乐的力量是神奇的,姜北生顺利通过了一试二试,考上了河北大学影视艺术学院。
 
 
 
当演员不是姜北生的目的,通过表演上一所好大学,“曲线救国”玩音乐才是目的。
 
 
 
进入大学以后,姜北生开始了主要玩乐队的大学生活。
 
 
 
后来,他们的乐队还参加了一个“冰红茶”全国乐队大赛,拿了河北赛区第二名。
 
 
 
姜北生的专业课老师是一位中戏的老教授,退休以后被返聘到河北大学。
 
 
 
即使姜北生一心扑在音乐上,老师也对姜北生寄予了表演的期望。
 
 
 
老师原本想让姜北生出演话剧《日出》里面的方达生,可当时年轻气盛的姜北生因为打架住了院,错过了这个角色。
 
 
 
Anyway.
 
 
 
艺术类的院校总需要录音这一技术支持,音乐系的老师听说玩乐队的姜北生会录音,就带着学生去找他。
 
 
 
老师的这一举动直接成了硬广,全校都知道了姜北生会录音这件事,姜北生索性展开了录音、编曲、混音的业务。
 
 
 
随着业务的发展,后来姜北生还给河北电视台的戏曲节目录音、混音。
 
 
 
学的是表演,可做的全是音乐的事情,这为姜北生的北漂故事奠定了基础。
 
 
 
 
 
02
 
 
 
上学的时候,姜北生就和陈伟伦认识,陈伟伦对姜北生说,等你毕业了,我帮你在北京找份工作。
 
 
 
2005年,姜北生大学毕业来到北京,陈伟伦对姜北生说,要不你先自己找找?万一比我推荐的好呢?
 
 
 
男人的嘴啊。
 
 
 
姜北生在网上找了一份录音的工作,在SP公司做一分钟的小故事。
 
 
 
当时流行鬼故事、带点儿擦边球的段子,公司的同事都是用软件把段子中间的空隙剪掉,一点一点剪成一分钟。
 
 
 
姜北生用Nuendo一拽,音频就正好一分钟,很快就做完了。
 
 
 
同事们很惊奇,纷纷来请教姜北生,姜北生就把软件和操作教给了他们。
 
 
 
公司和姜北生谈薪资的时候,姜北生喊了一个很高的价。
 
 
 
2005年,月薪5000,公司当时就答应了。
 
 
 
干了一周,陈伟伦推荐姜北生去一家叫作“网络秀”的音乐公司做制作部助理。
 
 
 
来北京本就是为了搞音乐,姜北生果断选择了税后工资1900的网络秀。
 
 
 
姜北生在网络秀做的第一张专辑是万晓利的《这一切没有想象的那么糟》。
 
 
 
那张专辑的后期制作只有一个月的时间,要的特别紧。
 
 
 
虽然已经有很多混音的经历,但在行业里姜北生还算新手,因为混音手法的问题,姜北生每天都和万晓利吵得不可开交。
 
 
 
后来万晓利说,你先混,混的差不多了,我再听再调整。
 
 
 
姜北生跟这张专辑死磕了一个月,最后拿给万晓利和网络秀的老板卢中强听,大家都觉得不错。
 
 
 
这是姜北生在网络秀印象最深的一张专辑。
 
 
 
在这段时间里,姜北生接触到了一个人,南京市民李先生。
 
 
 
雪山音乐节的宋婕把李先生介绍给了卢中强,卢中强本身也是南京人,觉得南京出了这样一个音乐人挺好的,想签李先生。
 
 
 
李先生当时在互联网上班,卢中强说他想收购一个网络论坛,让李先生来管网络论坛,然后音乐该怎么做就怎么做。
 
 
 
但是没聊成。
 
 
 
在网络秀待了两年,姜北生去了环球音乐。
 
  
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03
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'''姜北生'''(ジアン ベイション、Jiang Beisheng、1983年7月2日 -)は、[[河北省]]出身で、[[北京市]]で活動している[[レコーディングエンジニア]]。
  
姜北生的主管是环球A&R顾问,叫Caralinda,英国人。
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== 経歴 ==
  
当时在环球一起面试录音师的有八九个人,最后只录用了姜北生。
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中学卒業の時、父親か[[らギター]]を買ってもらい、やがて楽器販売店で練習している時にバンドを結成した。そして[[ボーカル]]兼[[ギター]]を担当した。またメンバーには李擎(Dr)がいた。練習場所は楽器販売店近くに借りた部屋の中であった。創作活動や[[ロック]]を聴いている時が人生で最もアツい時であった。
  
她之所以选择姜北生,是因为她觉得姜北生是一张白纸,没有太多别的想法,可以高质量地完成工作。
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この頃からネットが発達し、[[レコーディング]]や[[ミキシング]]などの知識を手に入れ、自分でいろいろ試すようになった。ただ、高校生だったため、まだいろいろ勉強をしなくてはいけない時期であり、父親は彼に[[ギター]]を購入した事を後悔した。やがて[[ギタリスト]]からカッコいいから俳優を目指して勉強したほうがいいと言われてその気になり、2001年夏、間もなく高校を卒業する予定の時、張家口話劇団所属の先生の下について勉強したが、まずセリフを中心に勉強するように勧められる。大学受験の時、散文を暗記して発表したほか、Elvis Presleyの「Love Me Tender」を歌った。やがて、[[河北省]][[石家荘市]]にある[[河北大学影視芸術学院]]に合格した。別に[[俳優]]になる目的ではなかったが、いい大学に入学するための手段であった。
  
姜北生对这种说法似懂非懂,他来环球的目的很简单,就是想镀镀金,认识些牛逼人。
+
大学入学後は、バンド活動ばかりしていた。2005年には[[壊罐頭楽隊]]や[[自由登陸楽隊]]で[[ドラム]]を担当した。
  
入职以后,姜北生才发现,一切和他想象的完全不一样。
+
やがて、芸術系の学部が[[レコーディングディングエンジニア]]を探しており、姜北生がバンド活動以外にレコーディングもできると聞きつけたため、彼にレコーディングやミキシング、アレンジなどの仕事を上げた。その後、[[河北電視台]]の戯曲節の[[PA]]を担当した。
  
艺人制作案都会有制作人专门的团队负责,环球自己的录音制作没有那么多,制作费也很少。
+
大学在籍中は[[陳偉倫]]と知り合いになり、彼から大学卒業後に上学を進められる。仕事を紹介するという話であったが、2005年に実際に上京すると、彼からは先に自分で仕事を探してみたほうがいいと言われてしまう。そしてネット上でレコーディング関連の仕事を見つけた。入社後に会社から提示された金額は月5000元で、当時としては破格の待遇であった。
  
这个时候,姜北生也有一些别人找他的工作,他跟Caralinda商量,他想把这些活儿带到环球来做,也让录音棚运转起来,混音的费用他自己拿。
+
しかし1週間後に[[陳偉倫]]の勧めで、音楽プロダクション・[[網絡秀]]のプロデュース部のアシスタントをすることなった。給与は1900元(税抜き)になってしまい、非常に安かったが、音楽に関する仕事に就きたかったため、お金は二の次であった。最初の仕事は[[万暁利]]の『[[這一切没有想象的那麼糟(万暁利)|這一切没有想象的那麼糟]]』で、ミックスダウンまで1か月しかない、とても忙しい仕事であったほか、[[ミキシング]]の経験はあったが、新人であったため、頻繁に[[万暁利]]と口喧嘩していた。最終的に[[万暁利]]や[[盧中強]]からOKサインが出て、アルバム発売となった。このアルバムはこれまでの人生の中で最も印象に残っているアルバムとなった。
  
Caralinda想了两天,委婉拒绝了这个提议,在她的理解里,环球已经付给姜北生薪水了,姜北生在环球的一切工作成果都应该是环球的。
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この頃、インターネット会社に就職していた[[李志]]とも知り合いとなる。
  
这就让姜北生很崩溃。
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2年ほど[[網絡秀]]で働いた後、[[環球唱片]]に[[レコーディングエンジニア]]として就職した。しかし、就職した後に[[環球唱片]]は外部委託が多く、社内でレコーディングすることはあまり無かった。いろいろ提案したが、結局は受け入れられず、空いた時間はトレーニングジムで体を鍛え、仕事を終えた後は別な人のためにレコーディングをしていた。この生活は無駄だと考え、1年半後に退職した。
  
在不饱和的工作时间,他在公司对面的加州健身办了张卡,天天去健身,下了班就去做其他的混音工作。
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その後、元・[[網絡秀]]である[[十三月唱片]]に誘われ、いろいろサポートするようになるが、[[十三月唱片]]は常に資金面で苦労していた。2008年には副総経理となった。
  
姜北生觉得这很浪费时间,再这么待下去人就废了,于是在环球待了一年半,姜北生决定离开。
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2010年、[[李志]]の「我愛南京演唱会」で[[PA]]を担当することになった。元々は想定しておらず、当初予定していた[[PA]]が時間が無かったため、代わりに引き受けたことであったが、その後、[[李志]]のアルバムレコーディングやライブに必ず参加するようになった。
 
 
最初的目的其实达到了,姜北生认识了很多牛逼人。
 
 
 
但也是这段时间让姜北生看到了自己的不成熟 —— 认识牛逼人并不是最重要的,最重要的是让自己变得牛逼。
 
 
 
这个结论是姜北生在环球的这段时间最大的收获。
 
 
 
在环球的这段时间,姜北生向Caralinda推荐过李先生,环球也有意向签李先生,但也没聊成。
 
 
 
07年,李先生在星光做演出,一开票很快就卖完了,但即使是那个状态,李先生仍然没有办法靠音乐养活自己。
 
 
 
演完出,李先生又回成都上了两年班。
 
 
 
 
 
04
 
 
 
离开环球后,姜北生想自己创业,原来“网络秀”的老板卢中强找到姜北生,请姜北生回去帮忙。
 
 
 
此时的“网络秀”已变成了十三月唱片,十三月唱片签了山人乐队、马条、谢天笑,公司的制作和技术层面有很多需要解决的问题。
 
 
 
2008年后经济环境不是很好,权衡左右,姜北生去十三月做了副总。
 
 
 
姜北生再次和李先生产生交集,是2010年,李先生做“我爱南京”演唱会。
 
 
 
李先生先找了崔健的音响师,吴征老师,但吴征老师没时间,就推荐了姜北生,正好大家都认识,就慢慢合作起来了。
 
 
 
姜北生觉得李先生很怪,和合作过的音乐人都不一样。
 
 
 
姜北生到了南京,进了酒店,李先生说,你先上去放东西,洗把脸然后下楼吃饭。
 
 
 
姜北生进了房间,看到了李先生的一封手写信。
 
 
 
第一页是工作流程,第二页是南京旅游攻略,每一条都写的特别清晰。
 
 
 
一起吃饭的时候,李先生话很少,吃着吃着,直接把演出费给姜北生结了。
 
 
 
姜北生迟疑了片刻,这就结账吗?
 
 
 
李先生说,对,先结账。
 
 
 
姜北生心想,这人唱歌虽然难听,但做事太靠谱了。
 
 
 
从这场演出开始,之后李先生所有的专辑制作,姜北生都在场,现场演出也几乎都在。
 
 
 
 
 
05
 
 
 
2012年,姜北生除了十三月的工作以外,开始和合伙人张博一起做S.A.G舞台艺术工作组。
 
 
 
同年,李先生在河北沽源演一个音乐节,在倒二的位置。
 
 
 
李先生出场的时候现场气氛特别热烈,很多人都是从旁边的区县过去的,张家口、锡林郭勒、常德···去了一万多人。
 
 
 
姜北生就跟李先生聊,你觉不觉得很奇怪?其他音乐人可能在北京很好,但在区县这些地方没人听,但你,就挺逗的。
 
 
 
李先生说,我也发现这个问题了。
 
 
 
姜北生说,你有没有想过去区县这些城市演一演,这些地方文化文艺的内容太少了,可以往这个方向想想。
 
 
 
李先生是那种,给他一个想法他就可以把这个事做的巨牛逼的人,会让你觉得很值得。
 
 
 
这个事情李先生想了很久,它就是后来的“叁叁肆”。
 
 
 
李先生邀请姜北生参加了“叁叁肆”的发布会,也没有让姜北生上台,直接把姜北生的照片投在了屏幕上。
 
 
 
李先生说,这个想法最早是北生提的。
 
 
 
后来,“叁叁肆”走过了安徽省、宁夏回族自治区、云南省、陕西省除渭南以外的所有地级市,除了山东省的后半段,姜北生都在。
 
 
 
再后来的事,你们都知道了。
 
 
 
 
 
06
 
 
 
姜北生说,和“叁叁肆”一起在路上的时候,印象最深刻的就是城市的面貌。
 
 
 
西北地区的经济、交通都特别好,城市虽然不大,但永远是车让人,有些地方没有红绿灯,但只要有人过,车都在斑马线那儿停得死死的。
 
 
 
每到一个城市都会有,听说这个城市有大学校长来了,有市长来了,都是自己买的票。
 
 
 
很多地区的文化内容都是欠缺的,需求都是存在的。
 
 
 
像这种深入地级市的中小型、专业的音乐演出,对于这些地区的文化补充是特别好的,但目前也是不够的。
 
 
 
 
 
【未完待续】
 
  
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2012年、張博と共にS.A.G舞台芸術工作組を組織した。
  
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その後、[[李志]]の全国ツアーも基本的に着いて行った。
  
 
== ディスコグラフィー ==
 
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2020年6月19日 (金) 13:09時点における版

姜北生
Jiangbeisheng 11.jpg
基本情報
中国語名(簡体字) 姜北生
中国語名(繁体字) 姜北生
拼音 Jiang Beisheng
発音転記 ジアン ベイション
出生日 1983年7月2日
出身地 河北省
担当楽器 ボーカルギタードラム
職業 レコーディングエンジニアプロデューサープロダクション経営者

姜北生(ジアン ベイション、Jiang Beisheng、1983年7月2日 -)は、河北省出身で、北京市で活動しているレコーディングエンジニア

経歴

中学卒業の時、父親からギターを買ってもらい、やがて楽器販売店で練習している時にバンドを結成した。そしてボーカルギターを担当した。またメンバーには李擎(Dr)がいた。練習場所は楽器販売店近くに借りた部屋の中であった。創作活動やロックを聴いている時が人生で最もアツい時であった。

この頃からネットが発達し、レコーディングミキシングなどの知識を手に入れ、自分でいろいろ試すようになった。ただ、高校生だったため、まだいろいろ勉強をしなくてはいけない時期であり、父親は彼にギターを購入した事を後悔した。やがてギタリストからカッコいいから俳優を目指して勉強したほうがいいと言われてその気になり、2001年夏、間もなく高校を卒業する予定の時、張家口話劇団所属の先生の下について勉強したが、まずセリフを中心に勉強するように勧められる。大学受験の時、散文を暗記して発表したほか、Elvis Presleyの「Love Me Tender」を歌った。やがて、河北省石家荘市にある河北大学影視芸術学院に合格した。別に俳優になる目的ではなかったが、いい大学に入学するための手段であった。

大学入学後は、バンド活動ばかりしていた。2005年には壊罐頭楽隊自由登陸楽隊ドラムを担当した。

やがて、芸術系の学部がレコーディングディングエンジニアを探しており、姜北生がバンド活動以外にレコーディングもできると聞きつけたため、彼にレコーディングやミキシング、アレンジなどの仕事を上げた。その後、河北電視台の戯曲節のPAを担当した。

大学在籍中は陳偉倫と知り合いになり、彼から大学卒業後に上学を進められる。仕事を紹介するという話であったが、2005年に実際に上京すると、彼からは先に自分で仕事を探してみたほうがいいと言われてしまう。そしてネット上でレコーディング関連の仕事を見つけた。入社後に会社から提示された金額は月5000元で、当時としては破格の待遇であった。

しかし1週間後に陳偉倫の勧めで、音楽プロダクション・網絡秀のプロデュース部のアシスタントをすることなった。給与は1900元(税抜き)になってしまい、非常に安かったが、音楽に関する仕事に就きたかったため、お金は二の次であった。最初の仕事は万暁利の『這一切没有想象的那麼糟』で、ミックスダウンまで1か月しかない、とても忙しい仕事であったほか、ミキシングの経験はあったが、新人であったため、頻繁に万暁利と口喧嘩していた。最終的に万暁利盧中強からOKサインが出て、アルバム発売となった。このアルバムはこれまでの人生の中で最も印象に残っているアルバムとなった。

この頃、インターネット会社に就職していた李志とも知り合いとなる。

2年ほど網絡秀で働いた後、環球唱片レコーディングエンジニアとして就職した。しかし、就職した後に環球唱片は外部委託が多く、社内でレコーディングすることはあまり無かった。いろいろ提案したが、結局は受け入れられず、空いた時間はトレーニングジムで体を鍛え、仕事を終えた後は別な人のためにレコーディングをしていた。この生活は無駄だと考え、1年半後に退職した。

その後、元・網絡秀である十三月唱片に誘われ、いろいろサポートするようになるが、十三月唱片は常に資金面で苦労していた。2008年には副総経理となった。

2010年、李志の「我愛南京演唱会」でPAを担当することになった。元々は想定しておらず、当初予定していたPAが時間が無かったため、代わりに引き受けたことであったが、その後、李志のアルバムレコーディングやライブに必ず参加するようになった。

2012年、張博と共にS.A.G舞台芸術工作組を組織した。

その後、李志の全国ツアーも基本的に着いて行った。

ディスコグラフィー

参加アルバム 

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外部リンク