死罪楽隊
死罪楽隊 | |
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基本情報 | |
中国語名(簡体字) | 死罪 |
中国語名(繁体字) | 死罪 |
拼音 | Sizui |
発音転記 | スズォイ |
英語名・外国語名 | DEADLY SINS |
出身地 | 上海市 |
ジャンル | ハードコア(結成時)・デスメタル(2001年後半以降) |
活動期間 | 2000年7月 - |
メンバー |
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死罪楽隊(スズォイ、Sizui)は、上海市で活動しているバンド。上海市で最も活動期間の長いエクストリームメタルバンドである。
メンバー
過去に在籍したメンバー
サポートメンバー
経歴
前身のバンドのメンバーは、喩鵬(Vo&G)・周冥(B)・王偉(Dr)。当時はパンクバンドで、練習の際には、よくNIRVANAを演奏していた。しかし、その頃から、ハードコアスタイルの曲を創作していた。 2000年7月になり、李俊(リードG)が加入し、喩鵬(Vo)・李俊(リードG)・周冥(B)・王偉(Dr)となり、バンド名を死罪楽隊とした。11月11日、U-LIKE酒[ロ巴]で行われた夜叉楽隊や廢墟楽隊の前座を務めた。これが初ライブであった。
2001年後半、メロディが複雑になった関係で、朱晶(元・SANKUFAR楽隊)(G)と譚少霆(Dr)が加入し、メンバーは喩鵬(Vo)・朱晶(G)・李俊(G)・周冥(B)・譚少霆(Dr)となった。音楽スタイルもこの時からデスメタルスタイルとなった。彼らは英語の曲がほとんどである。それは、中国語で歌うと、曲にパワーが感じられないと考えているからである。デスメタルの中でも、彼らはBrutal Death Metalスタイルを目指した。その後、nowhere town酒[ロ巴]で2回ライブを行った。間もなくして、音楽の考え方の違いにより、朱晶がバンドを脱退した。その後すぐに譚少霆も脱退した。
2002年8月3日、音楽倉でのライブより
(写真提供:上海古柯芸術網站)
2002年、ライブ活動を停止する。やがて、2曲入りDEMOを製作したが、その時は、喩鵬(Vo)・李俊(リードG)・周冥(B)の他に、孫霽星(リードG)が参加した。また、ドラムはいなかったため、ドラムマシーンを使用した。
これまで、ギャラをもらったライブは、2000年11月のライブだけである。ライブをやらない理由は、ライブにたよってばかりだと、他の多くのバンドと同じように、自らの進む道を間違えてしまうと考えているからである。
同年前半、結成時のメンバーである王偉(Dr)が再加入した。創作活動も再開する。
2002年8月3日、音楽倉のオープニングライブに出演した。11月30日、音楽倉でライブを行った。12月31日、禾火餐庁でライブを行った。
2003年3月、オムニバス『衆神復活2』に曲が収録された。同年、パソコンを使用して5曲入りDEMOを製作した。
2002年11月30日、音楽倉でのライブより
(撮影:YIREN)
2004年、胡少俊(元・随便楽隊)(リードG)が加入し、メンバーは喩鵬(Vo)・李俊(G)・胡少俊(リードG)・周冥(B)・王偉(Dr)となった。8月15日、SUB HOUSE BARでライブを行った。ライブ終了から間もなくして、李俊が脱退した。12月11日、fusion酒[ロ巴]で行われた『血流中国』巡演に参加した。12月、オムニバス『血流中国』に曲が収録された。
2005年6月11日、浦東新区文化芸術指導中心でライブを行った。8月6日、哈雷酒[ロ巴]でライブを行った。9月3日、新天地ARKで行われた“衆神復活”巡演に参加した。10月15日、哈雷酒[ロ巴]で行われた施教日楽隊と血腥高潮楽隊のライブの前座を務めた。
2006年5月6日、哈雷酒[ロ巴]で行われた香港のバンド・HYPONICのライブの前座を務めた。8月26日、哈雷酒[ロ巴]でライブを行った。9月9日、育音堂で行われた冥界楽隊のライブの前座を務めた。同月には、呉旭(麒纓楽隊)(B)が参加している。その後メンバーは喩鵬(Vo)・胡少俊(G)・周冥(B)・顧立峰(Dr)となった。11月25日、哈雷酒[ロ巴]でライブを行った。12月、オムニバス『衆神復活2』に曲「来自地獄」が収録された。
2002年の写真
(写真:MORT PRODUCTIONS)
胡少俊は2004年3月、旗纓楽隊に加入し、ギターを担当した。喩鵬は2006年11月25日、哈雷酒[ロ巴]で行われたmetaDEATH楽隊のライブにゲスト出演した。2007年、麒纓楽隊でコーラスを務めた。
ディスコグラフィー
スタジオ・アルバム
- ()(年月日)
ライブ・アルバム
- ()(年月日)
EP
- ()(年月日)
シングル
- ()(年月日)
映像作品
- ()(年月日)
プロモーション・アルバム
- ()(年月日)
プロモーション・シングル
- ()(年月日)
デモテープ
- ()(年月日)
コラボレーション・アルバム
- ()(年月日)
スプリット・アルバム
- ()(年月日)
ソロ発表曲
曲名 | アルバム名 | 発表年 | 備考 |
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喚醒心魔 衆神復活2 2003/3 | |||
焚尽霊魂 血流中国 2004/12 | |||
来自地獄 衆神復活2 2006/12 ボーナストラック▽中国科学文化音像出版社版のみ |
主要なライブ・コンサート
前身のバンドのメンバーは、喩鵬(Vo&G)・周冥(B)・王偉(Dr)。当時はパンクバンドで、練習の際には、よくNIRVANAを演奏していた。しかし、その頃から、ハードコアスタイルの曲を創作していた。 2000年7月になり、李俊(リードG)が加入し、喩鵬(Vo)・李俊(リードG)・周冥(B)・王偉(Dr)となり、バンド名を死罪楽隊とした。11月11日、U-LIKE酒[ロ巴]で行われた夜叉楽隊や廢墟楽隊の前座を務めた。これが初ライブであった。
2001年後半、メロディが複雑になった関係で、朱晶(元・SANKUFAR楽隊)(G)と譚少霆(Dr)が加入し、メンバーは喩鵬(Vo)・朱晶(G)・李俊(G)・周冥(B)・譚少霆(Dr)となった。音楽スタイルもこの時からデスメタルスタイルとなった。彼らは英語の曲がほとんどである。それは、中国語で歌うと、曲にパワーが感じられないと考えているからである。デスメタルの中でも、彼らはBrutal Death Metalスタイルを目指した。その後、nowhere town酒[ロ巴]で2回ライブを行った。間もなくして、音楽の考え方の違いにより、朱晶がバンドを脱退した。その後すぐに譚少霆も脱退した。
2002年8月3日、音楽倉でのライブより
(写真提供:上海古柯芸術網站)
2002年、ライブ活動を停止する。やがて、2曲入りDEMOを製作したが、その時は、喩鵬(Vo)・李俊(リードG)・周冥(B)の他に、孫霽星(リードG)が参加した。また、ドラムはいなかったため、ドラムマシーンを使用した。
これまで、ギャラをもらったライブは、2000年11月のライブだけである。ライブをやらない理由は、ライブにたよってばかりだと、他の多くのバンドと同じように、自らの進む道を間違えてしまうと考えているからである。
同年前半、結成時のメンバーである王偉(Dr)が再加入した。創作活動も再開する。
2002年8月3日、音楽倉のオープニングライブに出演した。11月30日、音楽倉でライブを行った。12月31日、禾火餐庁でライブを行った。
2003年3月、オムニバス『衆神復活2』に曲が収録された。同年、パソコンを使用して5曲入りDEMOを製作した。
2002年11月30日、音楽倉でのライブより
(撮影:YIREN)
2004年、胡少俊(元・随便楽隊)(リードG)が加入し、メンバーは喩鵬(Vo)・李俊(G)・胡少俊(リードG)・周冥(B)・王偉(Dr)となった。8月15日、SUB HOUSE BARでライブを行った。ライブ終了から間もなくして、李俊が脱退した。12月11日、fusion酒[ロ巴]で行われた『血流中国』巡演に参加した。12月、オムニバス『血流中国』に曲が収録された。
2005年6月11日、浦東新区文化芸術指導中心でライブを行った。8月6日、哈雷酒[ロ巴]でライブを行った。9月3日、新天地ARKで行われた“衆神復活”巡演に参加した。10月15日、哈雷酒[ロ巴]で行われた施教日楽隊と血腥高潮楽隊のライブの前座を務めた。
2006年5月6日、哈雷酒[ロ巴]で行われた香港のバンド・HYPONICのライブの前座を務めた。8月26日、哈雷酒[ロ巴]でライブを行った。9月9日、育音堂で行われた冥界楽隊のライブの前座を務めた。同月には、呉旭(麒纓楽隊)(B)が参加している。その後メンバーは喩鵬(Vo)・胡少俊(G)・周冥(B)・顧立峰(Dr)となった。11月25日、哈雷酒[ロ巴]でライブを行った。12月、オムニバス『衆神復活2』に曲「来自地獄」が収録された。
2002年の写真
(写真:MORT PRODUCTIONS)
胡少俊は2004年3月、旗纓楽隊に加入し、ギターを担当した。喩鵬は2006年11月25日、哈雷酒[ロ巴]で行われたmetaDEATH楽隊のライブにゲスト出演した。2007年、麒纓楽隊でコーラスを務めた。
外部リンク
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