驚弓之鳥楽隊
驚弓之鳥楽隊 | |
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基本情報 | |
中国語名(簡体字) | 惊弓之鸟 |
中国語名(繁体字) | 驚弓之鳥 |
拼音 | Jinggong zhi niao |
出身地 | 上海市 |
ジャンル | ポストパンク・ゴシック(2000年 - 2001年) |
活動期間 |
1998年春 - 2001年4月 2004年9月 - 2007年? |
影響 | Televison・The Cure |
メンバー |
布巾巾 Bunnyman 施棟才 胡琴慧 |
驚弓之鳥楽隊(、Jinggong zhi niao)は、上海市で活動していたバンド。
メンバー
- 布巾巾(呉建京) ボーカル(1998年春 - 2001年4月,2004年9月 - 2007年?)
- Bunnyman(章志強) ギター(1998年春 - 2001年4月,2004年9月 - 2007年?)
- 施棟才 ベース(2004年9月 - 2007年?)
- 胡琴慧 ドラム(2004年9月 - 2007年?)
過去に在籍したメンバー
- 丁新蓉 キーボード(1998年春 - 2001年4月,1998年春 - 2000年後半 ベース,2000年後半 - 2001年4月 キーボード) -- 女性。
- 唐欣華 ドラム(1998年春 - 2000年6月)
- Aaron ベース(2000年後半 - 2001年4月) -- アメリカ人。
サポートメンバー
経歴
1998年春、恐懼的眼楽隊をベースに、呉建京(布巾巾)・丁新蓉が加入し、バンドが結成となった。当初は、TelevisonとThe Cureの作品をカバーしていた。
1999年春、9曲入りの1stDEMOを制作した。12月23日のライブを最後に、初期に創作した曲は演奏しなくなった。
2000年6月、オムニバス・アルバム『UNDERGROUND OF THE 2000 地下上海』に曲を発表した。メンバーはみな大学卒業後も、そのまま上海市に留まって音楽活動を続け、上海市を代表するバンドにまで成長した。11月からは、ドラムマシーンを使うようになる。また、音楽スタイルがポストパンクからゴシックスタイルへと変化していった。
活動は順調であったが、2001年にはAaronが帰国することになり、また布巾巾も9月にアメリカへ留学する予定であったため、4月15日のライブをもって活動を停止した。その時の音源は、ライブアルバムとして制作された。
2004年初、布巾巾がアメリカで化学修士課程を修了後、帰国した。9月、布巾巾とBunnymanは新しいメンバーを加え、バンドを再結成した。音楽スタイルは、結成初期のポストパンクへと戻った。
2006年5月13日、育音堂で行われた重塑雕像的權利楽隊のライブの前座を務めた。 2007年1月、今までの音源を1つにしたアルバム『驚弓之鳥』が発売となった。
ディスコグラフィー
スタジオ・アルバム
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ライブ・アルバム
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EP
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シングル
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映像作品
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プロモーション・アルバム
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プロモーション・シングル
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デモテープ
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コラボレーション・アルバム
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スプリット・アルバム
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ソロ発表曲
曲名 | アルバム名 | 発表年 | 備考 |
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参加アルバム
アーティスト・バンド名 | 曲名 | アルバム名 | 発表年 | 参加形態 | 備考 |
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出演
媒体 | 曲名 | 収録ソフト名 | 発表年 | 参加形態 | 備考 |
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主要なライブ・コンサート
1998年春、恐懼的眼楽隊に呉建京(布巾巾)(Vo)・丁新蓉(女性)(B)が加入し、バンドが結成となった。メンバーは、布巾巾(Vo)・章志強(Bunnyman)(G)・丁新蓉(B)・唐欣華(Dr)。同年末、華東理工大学の体操部屋で初ライブを行った。この時、TelevisonとThe Cureの作品をカバーした。 1999年春、9曲入りの1stDEMOを製作した。音楽スタイルはポストパンク。11月27日、華東理工大学青春苑でライブを行った。12月23日、上海外国語大学視聴礼堂で行われた“揺滾之夜”ライブに出演した。このライブを最後に、初期に創作した曲は演奏しなくなった。
2000年4-5月、夢想家網站主催の“唱遊夢想”上海高校原創楽隊大賽に出演した。そして新曲「懶猫」が上海大学開幕式で演奏した際、大好評を博した。そして最優秀ライブ賞を獲得した。6月、オムニバス『UNDERGROUND OF THE 2000 地下上海』に曲を発表した。同月30日、華東理工大学で行われた『UNDERGROUND OF THE 2000 地下上海』発表会の後、唐欣華が脱退してしまい、その後は顔歡(弱弱)(Dr)が何回かサポートを務めた。
2004年、再結成後の写真
左から:Bunnyman(G)・布巾巾(Vo)・施棟才(B)・胡琴慧(Dr)
(撮影:mofo、写真:驚弓之鳥)
メンバーはみな大学卒業後も、そのまま上海に留まって音楽活動を続け、上海を代表するバンドにまで成長した。
9月2日、U-LIKEで行われた痩人楽隊のライブに前座として出演した。10月21日、U-LIKEで病蛹楽隊やT-9楽隊と共にライブを行った。11月、メンバーが布巾巾(Vo)・Bunnyman(G)・丁新蓉(Key)とAaron(米)(B)、ドラムマシーンとなった。この頃から音楽スタイルがポストパンクからゴシックスタイルへと変化していった。
2001年3月、ビジュアル系のライブに参加した。約半年振りのライブで、全て新曲を演奏した。
活動は順調であったが、Aaronが帰国することになり、また布巾巾も9月にアメリカへ留学する予定であったため、4月15日、U-LIKEで水晶蝶楽隊とともに行ったラストライブをもって活動を停止した。その時の音源は、ライブアルバムとして製作された。
2005年6月19日、新天地ARKで行われたライブより 左から:施棟才(B)・胡琴慧(Dr)・布巾巾(Vo&G)・Bunnyman(G) (撮影:YIREN)
2004年初、布巾巾がアメリカで化学修士課程を修了後、帰国した。9月、布巾巾とBunnymanはバンドを再結成した。再結成後のメンバーは、布巾巾(Vo&G)・Bunnyman(G)・施棟才(B)・胡琴慧(Dr)。音楽スタイルは、結成初期のポストパンクへと戻った。12月25日、哈雷酒[ロ巴]で再結成後初のライブを行った。 2005年1月16日、哈雷酒[ロ巴]で行われた“口袋音楽創刊一周年記念”ライブに参加した。3月5日、哈雷酒[ロ巴]で行われた“毛沢東による題詞「向雷鋒同志学習」42周年記念ライブ”に参加した。3月21日、新天地ARKでライブを行った。5月23日、新天地ARKでライブを行った。5月26日、華東理工大学八角亭二楼でライブを行った。6月12日、哈雷酒[ロ巴]で行われた木馬楽隊のライブの前座を務めた。6月19日、新天地ARKでライブを行った。9月17日、上海証大現代芸術館で行われたPK14楽隊のライブの前座を務めた。
2000年頃の写真
2006年5月13日、育音堂で行われた重塑雕像的權利楽隊のライブの前座を務めた。 2007年1月、今までの音源を1つにしたアルバム『驚弓之鳥』が発売となった。
外部リンク
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