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'''曹平'''(ツァオ ピン、Cao Ping、1961年3月22日 -)は、[[北京市]]で活動している[[ギタリスト]]。「ロック伝教士」の異名を持つ、中国で本当のロックを初めて演奏した[[ギタリスト]]である。
 
 
''''曹平''(ツァオ ピン、Cao Ping、1961年3月22日 -)は、[[北京市]]で活動している[[ギタリスト]]。「ロック伝教士」の異名を持つ、中国で本当のロックを初めて演奏した[[ギタリスト]]である。
 
  
 
== メンバー ==
 
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*'''曹平''' [[リードギター]] & [[ボーカル]](1986年 - 1987年)
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*'''[[高旗]]''' [[リズムギター]](1986年 - 1987年末)
*'''朱佳''' (1987年 -)
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=== 過去に在籍したメンバー ===
 
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*'''蔡深文''' [[ドラム]](1986年)
 
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=== サポートメンバー ===
 
  
 
== 経歴 ==
 
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[[北京市]]で生まれたが、3歳の時に[[広東省]][[広州市]]に移る。1974年から[[ギター]]を勉強し、1975年には、[[広州市]]で有名な[[ギタリスト]]・容氏兄弟に[[ギター]]を教えてもらう。のち、弟の[[曹鈞]]までが[[ギター]]を好きになったので、[[曹平]]は彼に[[ギター]]を教えるようになる。
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[[北京市]]で生まれたが、3歳の時に[[広東省]][[広州市]]に移る。1974年から[[ギター]]を勉強し、1975年には、[[広州市]]で有名な[[ギタリスト]]・容氏兄弟に[[ギター]]を教えてもらう。のち、弟の[[曹均]]までが[[ギター]]を好きになったので、曹平は彼に[[ギター]]を教えるようになる。1979年、[[人民解放軍]]に入隊する。
  
 
1980年には、陳志の教材で[[ギター]]を勉強し、技術が格段にアップした。やがて[[曹鈞]]が[[香港]]の六線譜を入手した。以後、カセットを聴きながら英語の曲を練習し始める。当時先生の家で、The Beatlesの曲を聴いていた。また[[ファンク]]を好んで聴くようになる。
 
1980年には、陳志の教材で[[ギター]]を勉強し、技術が格段にアップした。やがて[[曹鈞]]が[[香港]]の六線譜を入手した。以後、カセットを聴きながら英語の曲を練習し始める。当時先生の家で、The Beatlesの曲を聴いていた。また[[ファンク]]を好んで聴くようになる。
  
1982年、[[北京市]]に戻る。1983年、[[イギリス]]の友達が持ってきたアーティストやロックに関する本を翻訳した。
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1982年、復員と共に[[北京市]]に戻る。1983年、[[イギリス]]の友達が持ってきたアーティストやロックに関する本を翻訳した。
 
   
 
   
1985年には、[[奥琪吉它大奨賽]]に兄弟で出場する。そこで、[[高旗]]と知り合いになる。同年末には、[[七合板楽隊]]と交流を結ぶようになる。
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1985年夏には、[[奥琪吉它大奨賽]]に兄弟で出場する。そこで、[[高旗]]と知り合いになる。同年末には、[[七合板楽隊]]と交流を結ぶようになる。
 
 
1985年から1986年にかけて、[[高旗]]と音楽の行動を共にする。1986年には、曹平・[[高旗]]・[[曹鈞]]・蔡深文のメンバーでバンドを結成したが、バンド名は無かった。
 
  
1987年、[[曹鈞]]が脱退した後は[[張炬]]が加入した。5月には、[[北京化工学院]]で行なわれた[[PARTY]]に参加した。このライブ以後、[[高旗]]とともに本格的なバンド結成を考え、夏から美院に行って練習を開始した。メンバーには[[張炬]]・朱佳・周松などがいた。しかし年末には解散となった。また同年秋には、[[Da Da Da楽隊]]を結成したが、1年あまりで解散となった。
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1985年から1986年にかけて、[[高旗]]と行動を共にするようになる。1986年には、曹平・[[高旗]][[曹均]]・蔡深文でバンドを結成したが、バンド名は無かった。
  
1988年には、[[時効楽隊]]を結成したが、翌年解散となった。当時、彼の住んでいた西三旗賓館では、多くのロッカー達が練習や、情報交換のためにやってきていて、ここに同居したことのあるロッカーは20人以上もいた。
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1987年5月には、[[北京化工学院]]で行なわれた[[PARTY]]に参加した。このライブ以後、[[高旗]]とともに本格的なバンド結成を考え、夏から[[中央美術学院]]に行って[[Mayfly楽隊]]を結成して、練習を開始した。しかし[[高旗]]との音楽的な方向性の違いが明らかとなり、同年末には解散となった。また同年秋には、[[Da Da Da楽隊]]を結成したが、1年あまりで解散となった。
  
1993年、[[迷笛音楽学校]]の創立時の講師となり、多くの海外教材を翻訳した。1996年、[[北京現代音楽学院]]を設立する。
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1988年には、[[時効楽隊]]を結成したが、翌年解散となった。当時、彼の住んでいた西三旗賓館では、多くのロッカー達が練習や情報交換のためにやってきていて、ここに同居したことのあるロッカーは20人以上もいた。
  
国内外のロックに詳しく、またギターも得意であったため、多くのロッカーが彼の周りに集まってきた。中国ロック界で第一世代と呼ばれる人物から現在に到るまで、多くの人物が彼から音楽について教わっていた。バンド活動は決して成功したとはいえないが、中国ロックの発展に大きく貢献した人物である。
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その後、鬱病のような状態になってしまい、積極的な活動はしなくなっていった。
  
 1998年には赤龍楽隊を結成し、同年10月11日、北京首都体育館で行われた中美武林高手(武術大会)のゲストとしてライブを行ったが、その後、赤龍楽隊の名前は聞かなくなった。
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1993年、[[北京迷笛音楽学校]]の創立時の講師となり、多くの海外教材を翻訳した。
  
 1999年、曹平音楽教室を設立する。
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1996年、[[北京現代音楽研修学院]]を創立する。
  
 2003年10月2日、北京迷笛音楽学校で行われた吉他中国琴友会に曹鈞と楊樂が参加したが、彼らの演奏で、ゲストとしてドラムを叩いた。
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1998年には[[赤龍楽隊]]を結成した。
  
 現在でも音楽学校の教師を続けている。
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1999年、[[曹平音楽教室]]を設立した。同年、[[Mitabe楽隊]]で[[ドラム]]を担当した。
 
 
 
  
 
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2008年から[[北京巴洛克学院]]で[[音楽学校講師]]となった。
  
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== 評判 ==
  
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国内外のロックに詳しく、また[[ギター]]も得意であったため、多くのロッカーが彼の周りに集まってきた。[[中国ロック]]界で第一世代と呼ばれる人物から現在に到るまで、多くの人物が彼から音楽や楽器について教わっていた。[[中国ロック]]界の裏方として、[[中国ロック]]の発展に大きく貢献した人物である。
  
 
== ディスコグラフィー ==
 
== ディスコグラフィー ==
  
=== その他 ===
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=== 音楽教材 ===
  
 
*'''[[電貝司教程(曹平)|電貝司教程]]'''(2000年)
 
*'''[[電貝司教程(曹平)|電貝司教程]]'''(2000年)
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| artist02        = [[呼吸楽隊]]
 
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| songname02      = 爱的光芒
 
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| album02          = [[中国大揺滾--献給国際減災十年]]
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| date02          = 1993/1/8
 
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| participation02  = 作曲([[高旗]]と)
 
| participation02  = 作曲([[高旗]]と)
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== 主要なライブ・コンサート ==
 
== 主要なライブ・コンサート ==
  
*[[奥琪吉它大奨賽|1985年 北京市 奥琪吉它大奨賽]] 兄弟で出場
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*[[奥琪吉它大奨賽|1985年夏 北京市 奥琪吉它大奨賽]] 兄弟で出場
 
*[[北京化工学院/1987年5月|1987年5月 北京市 北京化工学院地下礼堂 PARTY]] メンバー:曹平・[[高旗]]・[[曹鈞]]など
 
*[[北京化工学院/1987年5月|1987年5月 北京市 北京化工学院地下礼堂 PARTY]] メンバー:曹平・[[高旗]]・[[曹鈞]]など
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*[[V-One Club/2000年3月28日|2000年3月28日 北京市 V-One Club]] クレジット:曹平+[[曹鈞]]+[[厳剛]]+[[高旗]]
  
 
== 外部リンク ==
 
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2020年5月23日 (土) 00:18時点における版

曹平
Caoping 11.jpg
1990年代前半の写真だと思われる。
基本情報
中国語名(簡体字) 曹平
中国語名(繁体字) 曹平
拼音 Cao Ping
発音転記 ツァオ ピン
出生日 1961年3月22日
出身地 北京市
担当楽器 ギターベースドラム
職業 音楽学校講師プロダクション経営者
メンバー 曹平
高旗
曹均

曹平(ツァオ ピン、Cao Ping、1961年3月22日 -)は、北京市で活動しているギタリスト。「ロック伝教士」の異名を持つ、中国で本当のロックを初めて演奏したギタリストである。

メンバー

過去に在籍したメンバー

経歴

北京市で生まれたが、3歳の時に広東省広州市に移る。1974年からギターを勉強し、1975年には、広州市で有名なギタリスト・容氏兄弟にギターを教えてもらう。のち、弟の曹均までがギターを好きになったので、曹平は彼にギターを教えるようになる。1979年、人民解放軍に入隊する。

1980年には、陳志の教材でギターを勉強し、技術が格段にアップした。やがて曹鈞香港の六線譜を入手した。以後、カセットを聴きながら英語の曲を練習し始める。当時先生の家で、The Beatlesの曲を聴いていた。またファンクを好んで聴くようになる。

1982年、復員と共に北京市に戻る。1983年、イギリスの友達が持ってきたアーティストやロックに関する本を翻訳した。

1985年夏には、奥琪吉它大奨賽に兄弟で出場する。そこで、高旗と知り合いになる。同年末には、七合板楽隊と交流を結ぶようになる。

1985年から1986年にかけて、高旗と行動を共にするようになる。1986年には、曹平・高旗曹均・蔡深文でバンドを結成したが、バンド名は無かった。

1987年5月には、北京化工学院で行なわれたPARTYに参加した。このライブ以後、高旗とともに本格的なバンド結成を考え、夏から中央美術学院に行ってMayfly楽隊を結成して、練習を開始した。しかし高旗との音楽的な方向性の違いが明らかとなり、同年末には解散となった。また同年秋には、Da Da Da楽隊を結成したが、1年あまりで解散となった。

1988年には、時効楽隊を結成したが、翌年解散となった。当時、彼の住んでいた西三旗賓館では、多くのロッカー達が練習や情報交換のためにやってきていて、ここに同居したことのあるロッカーは20人以上もいた。

その後、鬱病のような状態になってしまい、積極的な活動はしなくなっていった。

1993年、北京迷笛音楽学校の創立時の講師となり、多くの海外教材を翻訳した。

1996年、北京現代音楽研修学院を創立する。

1998年には赤龍楽隊を結成した。

1999年、曹平音楽教室を設立した。同年、Mitabe楽隊ドラムを担当した。

2008年から北京巴洛克学院音楽学校講師となった。

評判

国内外のロックに詳しく、またギターも得意であったため、多くのロッカーが彼の周りに集まってきた。中国ロック界で第一世代と呼ばれる人物から現在に到るまで、多くの人物が彼から音楽や楽器について教わっていた。中国ロック界の裏方として、中国ロックの発展に大きく貢献した人物である。

ディスコグラフィー

音楽教材

参加アルバム 

アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考
呼吸楽隊爱的光芒呼吸1990/7作曲(高旗と)
呼吸楽隊爱的光芒中国大揺滾 - 献給国際減災十年1993/1/8作曲(高旗と)
呼吸楽隊爱的光芒揺滾衝撃波11994作曲(高旗と)
呼吸楽隊爱的光芒中国揺滾経典1995作曲(高旗と)

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考
VCD曹平教你弹弗拉门戈吉他(上)G2 吉他平方2004第10期2004/10フラメンコギター教学

主要なライブ・コンサート

外部リンク