「黒豹楽隊」の版間の差分

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== メンバー ==
 
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*'''[[張淇]]''' [[ボーカル]](2013年3月 -)
 
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*'''[[李彤]]''' [[ギター]](1987年 -)
 
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*'''[[王文傑]]''' [[ベース]](1987年 -)
 
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*'''[[趙明義]]''' [[ドラム]](1990年 -)
 
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*'''[[恵鵬]]''' [[キーボード]](1987年 -)
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*'''[[恵鵬]]''' [[キーボード]](1999年12月 -)
  
 
=== 過去に在籍したメンバー ===
 
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*'''宋英雲''' (1987年 - 1988年?)
 
*'''宋英雲''' (1987年 - 1988年?)
 
*'''[[董鵬]]''' [[キーボード]](1987年 - 1988年)
 
*'''[[董鵬]]''' [[キーボード]](1987年 - 1988年)
*'''[[巒樹]]''' [[キーボード]](1988年 - ?
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*'''[[巒樹]]''' [[ボーカル]] & [[キーボード]](1988年 - 1991年後半 [[キーボード]],1991年後半 - 1994年 [[ボーカル]] & [[キーボード]]
*'''[[竇唯]]''' [[ボーカル]](1988年 - ?)
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*'''[[竇唯]]''' [[ボーカル]](1988年 - 1991年10月)
 
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*'''[[秦琦]]''' [[ボーカル]](1991年10月) -- バンドにスタイルが合わないため、未加入。
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*'''[[馮小波]]''' [[キーボード]](1993年4月 - 1999年12月)
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*'''[[秦勇]]''' [[ボーカル]](1994年 - 2005年3月)
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*'''張克鵬'''(張克芃、大棚) [[ボーカル]](2005年3月 - 2013年3月) -- 2008年、文章と共に汶川大地震被災者のための応援歌「永不放弃」を歌った。2010年1月17日、[[北京市]]の[[星光現場音楽庁]]で行なわれたライブに参加。2011年1月8日、[[北京市]]の[[国家奥林匹克体育中心/2011年1月8日|国家奥林匹克体育中心]]で行なわれたライブに参加。
  
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=== サポートメンバー ===
  
*'''張克鵬'''(張克芃、大棚) [[ボーカル]](2005年3月 - 2013年3月) -- 2008年、文章と共に汶川大地震被災者のための応援歌「永不放弃」を歌った。2010年1月17日、[[北京市]]の[[星光現場音楽庁]]で行なわれたライブに参加。2011年1月8日、[[北京市]]の[[国家奥林匹克体育中心/2011年1月8日|国家奥林匹克体育中心]]で行なわれたライブに参加。
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*'''[[王勇]]''' [[キーボード]](1992年5月 - 1993年?)
  
 
=== マネージャー ===
 
=== マネージャー ===
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1990年、メンバーが[[竇唯]]・[[李彤]]・[[王文傑]]・[[趙明義]]・[[巒樹]]となり、固定した。この時、最初のオリジナル作品「脸谱」を創作する。5月、[[深圳之春|深圳之春]]コンサートに参加し、ここで大好評を博した。そして、黒豹楽隊は多くのメディアから注目を浴びるようになった。この成功で、[[香港勁石公司]]([[滾石公司]]の香港子会社)との契約交渉が始まる。
 
1990年、メンバーが[[竇唯]]・[[李彤]]・[[王文傑]]・[[趙明義]]・[[巒樹]]となり、固定した。この時、最初のオリジナル作品「脸谱」を創作する。5月、[[深圳之春|深圳之春]]コンサートに参加し、ここで大好評を博した。そして、黒豹楽隊は多くのメディアから注目を浴びるようになった。この成功で、[[香港勁石公司]]([[滾石公司]]の香港子会社)との契約交渉が始まる。
  
1991年、[[香港勁石公司]]と契約し、2ヶ月の間にレコーディングを行なったほか、ミュージックビデオを制作する。8月になり、香港と台湾で1stアルバムが発売となった。9月には、「Don't Break My Heart」が香港の音楽ランキングで、3週ほど1位に輝き、“大陸で最も優秀なロックバンド”と称される。間もなくして台湾の滾石唱片(ROCK RECORDS)と契約する。11月には、香港で行われた“嘉士伯音楽会”に参加した。
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1991年、[[香港勁石公司]]と契約し、2ヶ月の間にレコーディングを行なったほか、ミュージックビデオを制作する。8月になり、[[香港]]と[[台湾]]で1stアルバム『[[黒豹(黒豹楽隊)|黒豹]]』が発売となった。9月には、「Don't Break My Heart」が[[香港]]の音楽ランキングで、3週ほど1位に輝き、「大陸で最も優秀なロックバンド」と称される。間もなくして[[台湾]]の[[滾石唱片]]([[ROCK RECORDS]])と契約する。
 1992年12月、大陸でもアルバムが発売されることとなるが、大陸盤が発売されるまでの1年の間に、大陸中で多くの海賊盤が出回ってしまう。1stアルバムは、正規盤で150万本の大ヒットとなるが、海賊盤も同じくらいの本数が出回ってしまった。海賊盤に対し、レコード会社の対応に煮え切らないメンバーは滾石唱片との契約を破棄した。
 
 
 
 
1stアルバムの頃
 
手前が竇唯
 
 
 
 
 当時、ロックアルバムは崔健しか発売していなかったため、ロックを知らない人々がこぞって彼らのアルバムに興味を示したことが売れた要因であろう。もちろん、アルバムの完成度はとても高いものであった。このアルバムの売上を超えたバンドは彼ら以前にも以後にも存在しない。当時、黒豹人気は彼らの知らないところにまで広まっており、雲南と長春では黒豹楽隊の名前を騙ったバンドが出現、かってにコンサートを開いていた。
 
 このように、人気は絶頂であったが、1991年10月、突然ボーカルの竇唯が脱退してしまう。そのため、秦[王奇]をボーカルとしてテストしたが、バンドに合わず、キーボードの巒樹がボーカルを担当することになった。1992年5月、王勇(Key)がサポートを務める。
 
 
 
 1993年4月より、馮小波(Key)が加入した。4月24・25日には、北京の首都体育館で1989楽隊と“臨終關懐(臨終まで配慮する)”合同チャリティコンサートを開く。
 
 
 
 
 
 
 
2000年12月24日、温州市体育館で行われたコンサートより
 
 
 
 
 
 
 
 
 8月、2ndアルバム『光芒之神』を発表した。
 
 1994年4月には、日本のJVCと契約、11月には『光芒之神』を大友光悦ほか、日本人スタッフの手によりリミックスされ、新たな『光芒之神』として発売された。しかし、この頃には巒樹が脱退し、秦勇がボーカルとしてメンバーに加わっていた。
 
 
 
 1995年4月は、ラサで初のロックコンサートを開く。これは、チベットの歴史が始まって以来の快挙であった。
 
  
 1996年2月には、3rdアルバム『無是無非』がアジア地区で同時発売となる。1ヶ月足らずで、45万本を販売した。3月には、来日して東京・渋谷のクラブクアトロで単独ライブを行い、日本の音楽界に黒豹楽隊の存在を知らしめた。のち、香港の棉花倶楽部でソロライブを行う。5月には、香港の紅[石勘]体育館で行われた“我愛普通人(私は普通の人が好き)”コンサートに出演する。
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1992年12月、[[中国]]でもアルバムが発売されることとなるが、中国盤が発売されるまでの1年の間に、大陸中で多くの海賊盤が出回ってしまう。1stアルバムは、正規盤で150万本の大ヒットとなるが、海賊盤も同じくらいの本数が出回ってしまった。海賊盤に対し、レコード会社の対応に煮え切らないメンバーは[[滾石唱片]]との契約を破棄した。
 
  
4thアルバム用に撮られた写真
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当時、ロックアルバムは[[崔健]]しか発売していなかったため、ロックを知らない人々がこぞって彼らのアルバムに興味を示したことが売れた要因であろう。もちろん、アルバムの完成度はとても高いものであった。このアルバムの売上を超えたバンドは彼ら以前にも以後にも存在しない。当時、黒豹人気は彼らの知らないところにまで広まっており、[[雲南省]]と[[吉林省]][[長春市]]では黒豹楽隊の名前を騙ったバンドが出現、かってにコンサートを開いていた。
左から:馮小波(Key)・王文傑(B)・趙明義(Dr)・李[丹彡](G)・秦勇(Vo)
 
 
  
 1997年には、全国60都市で公演する。
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このように、人気は絶頂であったが、1991年10月、突然[[ボーカル]]の[[竇唯]]が脱退してしまう。そのため、秦[王奇]をボーカルとしてテストしたが、バンドに合わず、[[巒樹]]が[[ボーカル]]を担当することになった。
 1998年5月には4thアルバム『不能譲我的煩悩没有機会表白』がアジア地区で同時発売となる。9月18日には再び来日、東京の池袋AMULUXで開催された“ASIAN BEATS 夜総会’98”に出演する夜総会バンドのゲストとして、ライブを行った。この後、大阪(UEDA HEAT BEAT)と九州(福岡“アジア・マンス”)でもライブを行った。10月8日には、中国北京奥林匹克中心体育場でコンサートを開く。このコンサートは、北京ではかつてないほどの観客動員数を記録したほか、近年大型ロックコンサートを開くことが禁じられていた北京で開いたということで、とても意義のあるものであった。その時の音源は、翌年2月になってアルバム化された。
 
  
 1999年1月23日、雲南省昆明で行われた“拒絶毒品,珍愛生命(麻薬を拒み、命を大切に)”コンサートに8つのバンドとともに参加する。6月、“新郷第二届揺滾音楽節”に参加したほか、各地でコンサートを開くが、年末には、馮小波が脱退する。代わりに惠鵬(Key)が加入し、2000年には「桑塔露[王其]亜(サンタルチア)」、「体会(Rimix)」を発表する。
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1993年8月、2ndアルバム『[[光芒之神(黒豹楽隊)|光芒之神]]』を発表した。
  
 春節(旧正月)過ぎから5月までの3回、中央電視台の番組「音画時尚」に出演し、「桑塔露[王其]亜(サンタルチア)」を演奏。ロックバンドとしては快挙であった。4月には、雲南世界博園一周年記念のイベントに参加した。
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1994年4月には、[[日本]]のJVCと契約した。同年、[[巒樹]]が脱退し、[[秦勇]]が[[ボーカリスト]]としてメンバーに加わった。
 
  
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1996年2月には、3rdアルバム『[[無是無非(黒豹楽隊)|無是無非]]』がアジア地区で同時発売となる。1ヶ月足らずで、45万本を販売した。3月には、来日して東京のライブハウスで単独ライブを行ない、[[日本]]の音楽界に黒豹楽隊の存在を知らしめた。
  
竇唯脱退後のメンバー
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1997年には、全国60都市で公演する。
左から:趙明義(Dr)・王文傑(B)・李[丹彡](G)・巒樹(Vo&Key)
 
雑誌『環球歌壇 中外明星画刊』(中国電影出版社、1992年)より
 
(写真提供:幸治隆子さん)
 
 
  
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1998年5月、4thアルバム『[[不能譲我的煩悩没有機会表白(黒豹楽隊)|不能譲我的煩悩没有機会表白]]』がアジア地区で同時発売となった。
  
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春節(旧正月)過ぎから5月までの3回、[[テレビ]]・[[中央電視台]]の番組「音画時尚」に出演し、「桑塔露琪亚(サンタルチア)」を演奏した。ロックバンドとしては快挙であった。
  
 9月16日には、北京のオリンピックスタジアムで行われた“2000年現代音楽演唱会”に参加してトリを務め、なお中国一のロックバンドであるところを見せ付けた。10月、長年マネージメントを担当してきた竹書文化との契約が切れてから初めての曲、「没有[イ尓]」を発表した。同月8日には、北京工人体育場で行われた原創反盗維権大型演唱会に参加した。
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9月16日には、北京のオリンピックスタジアムで行われた“2000年現代音楽演唱会”に参加してトリを務め、なお中国一のロックバンドであるところを見せ付けた。10月、長年マネージメントを担当してきた竹書文化との契約が切れてから初めての曲、「没有[イ尓]」を発表した。同月8日には、北京工人体育場で行われた原創反盗維権大型演唱会に参加した。
 
 2001年2月には、1998年10月8日に中国北京奥林匹克中心体育場で行われたコンサートが、VCDとなって発売された。5月12日、日壇公園で行われた“第三回ハイネケン夏季音楽祭”に出演した。9月19日、奥林匹克体育中心体育館で行われた北京サンミゲルビール賛助の“中国揺滾生力軍楽隊比賽総決賽(ロックバンドコンテスト決勝戦)”にゲスト出演した。
 
 2001年2月には、1998年10月8日に中国北京奥林匹克中心体育場で行われたコンサートが、VCDとなって発売された。5月12日、日壇公園で行われた“第三回ハイネケン夏季音楽祭”に出演した。9月19日、奥林匹克体育中心体育館で行われた北京サンミゲルビール賛助の“中国揺滾生力軍楽隊比賽総決賽(ロックバンドコンテスト決勝戦)”にゲスト出演した。
  
 2002年、北京麒麟童文化と契約する。
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2002年、[[北京麒麟童文化]]と契約する。
  
2004年1月30日、シンガポールで行われたロック音楽祭に参加した。7月、5thアルバム『黒豹Ⅴ』が発売となった。
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2004年7月、5thアルバム『[[黒豹V(黒豹楽隊)|黒豹V]]』が発売となった。
  
 
2005年3月、[[秦勇]]が脱退し、張克芃が[[ボーカリスト]]として加入した。
 
2005年3月、[[秦勇]]が脱退し、張克芃が[[ボーカリスト]]として加入した。
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*'''[[黒豹(黒豹楽隊)|黒豹]]'''(1991年8月)
 
*'''[[黒豹(黒豹楽隊)|黒豹]]'''(1991年8月)
 
*'''[[光芒之神(黒豹楽隊)|光芒之神]]'''(1993年8月)
 
*'''[[光芒之神(黒豹楽隊)|光芒之神]]'''(1993年8月)
*'''[[無是無非(黒豹楽隊)|無是無非]]'''(1996年8月)
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*'''[[無是無非(黒豹楽隊)|無是無非]]'''(1996年)
 
*'''[[不能譲我的煩悩没有機会表白(黒豹楽隊)|不能譲我的煩悩没有機会表白]]'''(1998年)
 
*'''[[不能譲我的煩悩没有機会表白(黒豹楽隊)|不能譲我的煩悩没有機会表白]]'''(1998年)
 
*'''[[黒豹V(黒豹楽隊)|黒豹V]]'''(2004年7月)
 
*'''[[黒豹V(黒豹楽隊)|黒豹V]]'''(2004年7月)

2013年10月28日 (月) 12:13時点における版

黒豹楽隊
Heibao 11.jpg
基本情報
中国語名(簡体字) 黑豹
中国語名(繁体字) 黑豹
拼音 Heibao
発音転記 ヘイバオ
英語名・外国語名 通常:BLACK PANTHER
1999年以後:BLACK LEOPARD
普天同慶娯楽契約期間:HOT-BLOODED POWER
出身地 北京市
ジャンル ハードロック
活動期間 1987年 -
メンバー 張淇
李彤
王文傑
趙明義
恵鵬
(写真:)
(写真:)
(写真:)
(写真:)
(写真:)

黒豹楽隊(ヘイバオ、Heibao)は、北京市で活動しているバンド。中国人華僑の中でアルバムが最も売れたバンドである。

メンバー

過去に在籍したメンバー

サポートメンバー

マネージャー

経歴

1987年、沙棘芸術団が改名した。李彤が名付け親であった。1988年、丁武が脱退し、活動が休止となりかけた頃、巒樹竇唯をメンバーに加え、活動を再開した。しかし、この頃は金もなく、演奏する設備もなく、メンバーの心は黒豹楽隊から別のところにあった。マネージャー郭伝林のおかげでどうにか、天安門事件後の困難を乗り切る。

1990年、メンバーが竇唯李彤王文傑趙明義巒樹となり、固定した。この時、最初のオリジナル作品「脸谱」を創作する。5月、深圳之春コンサートに参加し、ここで大好評を博した。そして、黒豹楽隊は多くのメディアから注目を浴びるようになった。この成功で、香港勁石公司滾石公司の香港子会社)との契約交渉が始まる。

1991年、香港勁石公司と契約し、2ヶ月の間にレコーディングを行なったほか、ミュージックビデオを制作する。8月になり、香港台湾で1stアルバム『黒豹』が発売となった。9月には、「Don't Break My Heart」が香港の音楽ランキングで、3週ほど1位に輝き、「大陸で最も優秀なロックバンド」と称される。間もなくして台湾滾石唱片ROCK RECORDS)と契約する。

1992年12月、中国でもアルバムが発売されることとなるが、中国盤が発売されるまでの1年の間に、大陸中で多くの海賊盤が出回ってしまう。1stアルバムは、正規盤で150万本の大ヒットとなるが、海賊盤も同じくらいの本数が出回ってしまった。海賊盤に対し、レコード会社の対応に煮え切らないメンバーは滾石唱片との契約を破棄した。

当時、ロックアルバムは崔健しか発売していなかったため、ロックを知らない人々がこぞって彼らのアルバムに興味を示したことが売れた要因であろう。もちろん、アルバムの完成度はとても高いものであった。このアルバムの売上を超えたバンドは彼ら以前にも以後にも存在しない。当時、黒豹人気は彼らの知らないところにまで広まっており、雲南省吉林省長春市では黒豹楽隊の名前を騙ったバンドが出現、かってにコンサートを開いていた。

このように、人気は絶頂であったが、1991年10月、突然ボーカル竇唯が脱退してしまう。そのため、秦[王奇]をボーカルとしてテストしたが、バンドに合わず、巒樹ボーカルを担当することになった。

1993年8月、2ndアルバム『光芒之神』を発表した。

1994年4月には、日本のJVCと契約した。同年、巒樹が脱退し、秦勇ボーカリストとしてメンバーに加わった。

1996年2月には、3rdアルバム『無是無非』がアジア地区で同時発売となる。1ヶ月足らずで、45万本を販売した。3月には、来日して東京のライブハウスで単独ライブを行ない、日本の音楽界に黒豹楽隊の存在を知らしめた。

1997年には、全国60都市で公演する。

1998年5月、4thアルバム『不能譲我的煩悩没有機会表白』がアジア地区で同時発売となった。

春節(旧正月)過ぎから5月までの3回、テレビ中央電視台の番組「音画時尚」に出演し、「桑塔露琪亚(サンタルチア)」を演奏した。ロックバンドとしては快挙であった。

9月16日には、北京のオリンピックスタジアムで行われた“2000年現代音楽演唱会”に参加してトリを務め、なお中国一のロックバンドであるところを見せ付けた。10月、長年マネージメントを担当してきた竹書文化との契約が切れてから初めての曲、「没有[イ尓]」を発表した。同月8日には、北京工人体育場で行われた原創反盗維権大型演唱会に参加した。  2001年2月には、1998年10月8日に中国北京奥林匹克中心体育場で行われたコンサートが、VCDとなって発売された。5月12日、日壇公園で行われた“第三回ハイネケン夏季音楽祭”に出演した。9月19日、奥林匹克体育中心体育館で行われた北京サンミゲルビール賛助の“中国揺滾生力軍楽隊比賽総決賽(ロックバンドコンテスト決勝戦)”にゲスト出演した。

2002年、北京麒麟童文化と契約する。

2004年7月、5thアルバム『黒豹V』が発売となった。

2005年3月、秦勇が脱退し、張克芃がボーカリストとして加入した。

2008年、普天同慶娯楽と契約した。

2013年3月、張淇が新しくボーカリストになった。7月16日、6枚目のアルバム『我們是誰』を発表した。

ディスコグラフィー

ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

プロモーション・シングル

ソロ発表曲 

テンプレート:Solo List 50

参加アルバム 

アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考
豹妹把轻松交给我英雄無悔・選択堅強1996演奏李小燕の1stアルバムとはクレジットが異なる。新たにレコーディングしたものか
豹妹回到梦中英雄無悔・選択堅強1996演奏李小燕の1stアルバムとはクレジットが異なる。新たにレコーディングしたものか
楽駅楽隊无地自容1998詞曲カバー
複数既然我们是兄弟既然我們是兄弟1999ボーカル(複数で)非売品

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考

主要なライブ・コンサート

外部リンク