「黒豹楽隊」の版間の差分

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=== マネージャー ===
 
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*'''[[郭伝林]]''' [[マネージャー]](1987年 - ?,1987年 - 1988年 [[演奏]],1988年 - ? [[マネージャー]]) -- 元々は演奏メンバーであったが、やがてマネージメント業に専念。
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*'''[[郭伝林]]''' [[マネージャー]](1987年 - 1994年?,1987年 - 1988年 [[演奏]],1988年 - 1994年? [[マネージャー]]) -- 元々は演奏メンバーであったが、やがてマネージメント業に専念。
  
 
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1987年、[[沙棘芸術団]]が改名した。[[李彤]]が名付け親であった。1988年、[[丁武]]が脱退し、活動が休止となりかけた頃、[[巒樹]]と[[竇唯]]をメンバーに加え、活動を再開した。しかし、この頃は金もなく、演奏する設備もなく、メンバーの心は黒豹楽隊から別のところにあった。[[マネージャー]]の[[郭伝林]]のおかげでどうにか、天安門事件後の困難を乗り切る。
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1993年8月、2ndアルバム『[[光芒之神(黒豹楽隊)|光芒之神]]』を発表した。
 
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1994年4月には、[[日本]]のJVCと契約した。同年、[[巒樹]]が脱退し、[[秦勇]]が[[ボーカリスト]]としてメンバーに加わった。
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1994年4月には、[[日本]]のJVCと契約した。同年、[[巒樹]]が脱退し、[[秦勇]]が[[ボーカリスト]]としてメンバーに加え、「光芒之神」を新しくレコーディングし直したニューバージョンの『[[光芒之神(黒豹楽隊)|光芒之神]]』を発売した。やがて、マネージメントはJVCから独立した[[竹書文化]]が行なうようになった。
  
 
1996年2月には、3rdアルバム『[[無是無非(黒豹楽隊)|無是無非]]』がアジア地区で同時発売となる。1ヶ月足らずで、45万本を販売した。3月には、来日して東京のライブハウスで単独ライブを行ない、[[日本]]の音楽界に黒豹楽隊の存在を知らしめた。
 
1996年2月には、3rdアルバム『[[無是無非(黒豹楽隊)|無是無非]]』がアジア地区で同時発売となる。1ヶ月足らずで、45万本を販売した。3月には、来日して東京のライブハウスで単独ライブを行ない、[[日本]]の音楽界に黒豹楽隊の存在を知らしめた。
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2000年の春節(旧正月)過ぎから5月までの3回、[[テレビ]]・[[中央電視台]]の番組「音画時尚」に出演し、「桑塔露琪亚(サンタルチア)」を演奏した。ロックバンドとしては快挙であった。
 
2000年の春節(旧正月)過ぎから5月までの3回、[[テレビ]]・[[中央電視台]]の番組「音画時尚」に出演し、「桑塔露琪亚(サンタルチア)」を演奏した。ロックバンドとしては快挙であった。
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2002年、[[北京麒麟童文化]]と契約する。
 
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2005年3月、[[秦勇]]が脱退し、張克芃が[[ボーカリスト]]として加入した。
 
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張克芃はもともと
  
 
2008年、[[普天同慶娯楽]]と契約した。
 
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2013年3月、[[張淇]]が新しく[[ボーカリスト]]になった。7月16日、6枚目のアルバム『[[我們是誰(黒豹楽隊)|我們是誰]]』を発表した。
 
2013年3月、[[張淇]]が新しく[[ボーカリスト]]になった。7月16日、6枚目のアルバム『[[我們是誰(黒豹楽隊)|我們是誰]]』を発表した。
 
== ディスコグラフィー ==
 
  
 
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*[[紅河谷現代音楽節/2005年5月1日|2005年5月1日 陝西省西安市 陝西紅河谷森林公園 紅河谷現代音楽節]]
 
*[[紅河谷現代音楽節/2005年5月1日|2005年5月1日 陝西省西安市 陝西紅河谷森林公園 紅河谷現代音楽節]]
 
*[[北京首都体育館/2005年5月27日|2005年5月27日 北京市 北京首都体育館]] BEYONDラストコンサート
 
*[[北京首都体育館/2005年5月27日|2005年5月27日 北京市 北京首都体育館]] BEYONDラストコンサート
*[[和平的天空-記念世界反法西斯戦争勝利60周年大型演唱会/2005年7月1日|2005年7月1日 北京市 北京工人体育場 和平的天空-記念世界反法西斯戦争勝利60周年大型演唱会]]
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*[[和平的天空-記念世界反法西斯戦争勝利60周年大型演唱会|2005年7月1日 北京市 北京工人体育場 和平的天空-記念世界反法西斯戦争勝利60周年大型演唱会]]
 
*[[北海国際海灘旅遊文化節/2005年7月30日|2005年7月30日 広西チワン族自治区北海市 銀灘広場 北海国際海灘旅遊文化節]]
 
*[[北海国際海灘旅遊文化節/2005年7月30日|2005年7月30日 広西チワン族自治区北海市 銀灘広場 北海国際海灘旅遊文化節]]
 
*[[哈尓浜国際会展中心/2006年5月26日|2006年5月26日 黒竜江省哈尓浜市 哈尓浜国際会展中心体育館 揺滾・経典中国-哈尓浜啤酒演唱会]]
 
*[[哈尓浜国際会展中心/2006年5月26日|2006年5月26日 黒竜江省哈尓浜市 哈尓浜国際会展中心体育館 揺滾・経典中国-哈尓浜啤酒演唱会]]

2013年10月29日 (火) 05:45時点における版

黒豹楽隊
Heibao 11.jpg
基本情報
中国語名(簡体字) 黑豹
中国語名(繁体字) 黑豹
拼音 Heibao
発音転記 ヘイバオ
英語名・外国語名 通常:BLACK PANTHER
1999年以後:BLACK LEOPARD
普天同慶娯楽契約期間:HOT-BLOODED POWER
出身地 北京市
ジャンル ハードロック
活動期間 1987年 -
メンバー 張淇
李彤
王文傑
趙明義
恵鵬
(写真:)
(写真:)
(写真:)
(写真:)
(写真:)

黒豹楽隊(ヘイバオ、Heibao)は、北京市で活動しているバンド。中国人華僑の中でアルバムが最も売れたバンドである。

メンバー

過去に在籍したメンバー

サポートメンバー

マネージャー

経歴

トップバンドに君臨

1987年、沙棘芸術団が改名した。李彤が名付け親であった。1988年、丁武が脱退し、活動が休止となりかけた頃、巒樹竇唯をメンバーに加え、活動を再開した。しかし、この頃は金もなく、演奏する設備もなく、メンバーの心は黒豹楽隊から別のところにあった。マネージャー郭伝林のおかげでどうにか、天安門事件後の困難を乗り切る。

1990年、メンバーが竇唯李彤王文傑趙明義巒樹となり、固定した。この時、最初のオリジナル作品「脸谱」を創作する。5月、深圳之春コンサートに参加し、ここで大好評を博した。そして、黒豹楽隊は多くのメディアから注目を浴びるようになった。この成功で、香港勁石公司滾石公司の香港子会社)との契約交渉が始まる。

1991年、香港勁石公司と契約し、2ヶ月の間にレコーディングを行なったほか、ミュージックビデオを制作する。8月になり、香港台湾で1stアルバム『黒豹』が発売となった。9月には、「Don't Break My Heart」が香港の音楽ランキングで、3週ほど1位に輝き、「大陸で最も優秀なロックバンド」と称される。間もなくして台湾滾石唱片ROCK RECORDS)と契約する。

1992年12月、中国でもアルバムが発売されることとなるが、中国盤が発売されるまでの1年の間に、大陸中で多くの海賊盤が出回ってしまう。1stアルバムは、正規盤で150万本の大ヒットとなるが、海賊盤も同じくらいの本数が出回ってしまった。海賊盤に対し、レコード会社の対応に煮え切らないメンバーは滾石唱片との契約を破棄した。

当時、ロックアルバムは崔健しか発売していなかったため、ロックを知らない人々がこぞって彼らのアルバムに興味を示したことが売れた要因であろう。もちろん、アルバムの完成度はとても高いものであった。このアルバムの売上を超えたバンドは彼ら以前にも以後にも存在しない。当時、黒豹人気は彼らの知らないところにまで広まっており、雲南省吉林省長春市では黒豹楽隊の名前を騙ったバンドが出現、かってにコンサートを開いていた。

このように、人気は絶頂であったが、1991年10月、突然ボーカル竇唯が脱退してしまう。その後、巒樹ボーカルを担当することになった。

1993年8月、2ndアルバム『光芒之神』を発表した。

日本の会社によるプロデュースへ

1994年4月には、日本のJVCと契約した。同年、巒樹が脱退し、秦勇ボーカリストとしてメンバーに加え、「光芒之神」を新しくレコーディングし直したニューバージョンの『光芒之神』を発売した。やがて、マネージメントはJVCから独立した竹書文化が行なうようになった。

1996年2月には、3rdアルバム『無是無非』がアジア地区で同時発売となる。1ヶ月足らずで、45万本を販売した。3月には、来日して東京のライブハウスで単独ライブを行ない、日本の音楽界に黒豹楽隊の存在を知らしめた。

1997年には、全国60都市で公演する。

1998年5月、4thアルバム『不能譲我的煩悩没有機会表白』がアジア地区で同時発売となった。

2000年の春節(旧正月)過ぎから5月までの3回、テレビ中央電視台の番組「音画時尚」に出演し、「桑塔露琪亚(サンタルチア)」を演奏した。ロックバンドとしては快挙であった。

JVC(竹書文化)との契約時に手がけた3枚のアルバム(2ndアルバムを含む)の完成度や売り上げはそれほど悪いものではなかったが、1stアルバムの売り上げや人気を超えられず、また音楽評論家達も音楽的な分析より、竇唯秦勇の比較をメインとした評論になってしまったため、総合的に竇唯時代を超えることができなかったことが、黒豹楽隊の人気を落とすきっかけとなってしまった。

中国国内を中心に

2002年、北京麒麟童文化と契約する。

2004年7月、5thアルバム『黒豹V』が発売となった。

2005年3月、秦勇が脱退し、張克芃がボーカリストとして加入した。

張克芃はもともと

2008年、普天同慶娯楽と契約した。

2013年3月、張淇が新しくボーカリストになった。7月16日、6枚目のアルバム『我們是誰』を発表した。

ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

プロモーション・シングル

ソロ発表曲 

テンプレート:Solo List 50

参加アルバム 

アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考
豹妹把轻松交给我英雄無悔・選択堅強1996演奏李小燕の1stアルバムとはクレジットが異なる。新たにレコーディングしたものか
豹妹回到梦中英雄無悔・選択堅強1996演奏李小燕の1stアルバムとはクレジットが異なる。新たにレコーディングしたものか
楽駅楽隊无地自容1998詞曲カバー
複数既然我们是兄弟既然我們是兄弟1999ボーカル(複数で)非売品

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考

主要なライブ・コンサート

外部リンク