「唐朝楽隊」の版間の差分

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== 経歴 ==
 
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 丁武(Vo&G)と張炬は、アメリカ人2人から技術的な面や、音楽的に多大なる影響を受ける。やがて練習を重ねて、安楽居で行われたPARTYに参加した。唐朝楽隊が初めてライブを行った場所であった。この頃は、まだ作品を持っていなかった。東北へライブツアーなども行ったが、この時の唐朝楽隊の活動期間はたった2ヶ月で、1989年6月にはKAISERとSARPOは帰国、丁武は新疆へ旅立ち、張炬は大連に行ってしまい、唐朝楽隊は解散した。
 
 丁武(Vo&G)と張炬は、アメリカ人2人から技術的な面や、音楽的に多大なる影響を受ける。やがて練習を重ねて、安楽居で行われたPARTYに参加した。唐朝楽隊が初めてライブを行った場所であった。この頃は、まだ作品を持っていなかった。東北へライブツアーなども行ったが、この時の唐朝楽隊の活動期間はたった2ヶ月で、1989年6月にはKAISERとSARPOは帰国、丁武は新疆へ旅立ち、張炬は大連に行ってしまい、唐朝楽隊は解散した。
  
 新疆から帰郷した丁武は同じく北京に戻った張炬と共に、唐朝楽隊の継続を心に決め、ギターリスト老五(劉義君)と経験豊富なドラマー趙年をメンバーに加え、活動を再開した。練習は、友達の楊軍の助けにより、中央美術学院12階建て宿舎の一室で行われた。楽器も壊れたものを使用したり、食事もままならなかったが、作品を創作し続けた。1989年12月30日の京城大酒店で開かれたPARTYでは、初めて自分たちの曲を演奏した。
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 新疆から帰郷した丁武は同じく北京に戻った張炬と共に、唐朝楽隊の継続を心に決め、ギターリスト老五(劉義君)と経験豊富なドラマー趙年をメンバーに加え、活動を再開した。練習は、友達の楊軍の助けにより、中央美術学院12階建て宿舎の一室で行われた。楽器も壊れたものを使用したり、食事もままならなかったが、作品を創作し続けた。
  
 
 1990年2月、北京首都体育館で行われた“90現代音楽演唱会”に呼吸楽隊・眼鏡蛇女子楽隊・寶貝兄弟楽隊・1989楽隊・ADO楽隊とともに参加した。この時は張炬がボーカルを務め、「粉霧」など2曲を演奏し、大好評を得る。5月1日、台湾の滾石唱片と契約、レコーディングを開始した。半年ほど秦琦もメンバーとして加わっていた。
 
 1990年2月、北京首都体育館で行われた“90現代音楽演唱会”に呼吸楽隊・眼鏡蛇女子楽隊・寶貝兄弟楽隊・1989楽隊・ADO楽隊とともに参加した。この時は張炬がボーカルを務め、「粉霧」など2曲を演奏し、大好評を得る。5月1日、台湾の滾石唱片と契約、レコーディングを開始した。半年ほど秦琦もメンバーとして加わっていた。

2015年1月25日 (日) 18:06時点における版

唐朝楽隊
Tangchao 11.jpg
基本情報
中国語名(簡体字) 唐朝
中国語名(繁体字) 唐朝
拼音 Tangchao
発音転記 タンチャオ
出身地 北京市
ジャンル プログレッシブメタルヘビーメタル
活動期間 1988年末 - 1989年6月
1989年後半 -
メンバー 丁武



(写真:)

唐朝楽隊(タンチャオ、Tangchao)は、北京市で活動しているプログレッシブメタルバンド。中国を代表するメタルバンドである。

メンバー

過去に在籍したメンバー

  • 張炬 ベース(1988年末 - 1989年6月,1989年後半 - 1995年5月11日) -- 1989年6月解散後、遼寧省大連市に行った。交通事故で死亡。

サポートメンバー

経歴

北京のバンド。1988年末、かつて黒豹楽隊のメンバーだった丁武とロックミュージシャン仲間のベーシスト・張炬がアメリカ華僑のKAISER KUO(郭怡廣)(G)・アメリカ人SARPO(薩保)(Dr)と出会い、4人が意気投合して唐朝楽隊を結成する。バンド名はKAISERが名づける。  丁武(Vo&G)と張炬は、アメリカ人2人から技術的な面や、音楽的に多大なる影響を受ける。やがて練習を重ねて、安楽居で行われたPARTYに参加した。唐朝楽隊が初めてライブを行った場所であった。この頃は、まだ作品を持っていなかった。東北へライブツアーなども行ったが、この時の唐朝楽隊の活動期間はたった2ヶ月で、1989年6月にはKAISERとSARPOは帰国、丁武は新疆へ旅立ち、張炬は大連に行ってしまい、唐朝楽隊は解散した。

 新疆から帰郷した丁武は同じく北京に戻った張炬と共に、唐朝楽隊の継続を心に決め、ギターリスト老五(劉義君)と経験豊富なドラマー趙年をメンバーに加え、活動を再開した。練習は、友達の楊軍の助けにより、中央美術学院12階建て宿舎の一室で行われた。楽器も壊れたものを使用したり、食事もままならなかったが、作品を創作し続けた。

 1990年2月、北京首都体育館で行われた“90現代音楽演唱会”に呼吸楽隊・眼鏡蛇女子楽隊・寶貝兄弟楽隊・1989楽隊・ADO楽隊とともに参加した。この時は張炬がボーカルを務め、「粉霧」など2曲を演奏し、大好評を得る。5月1日、台湾の滾石唱片と契約、レコーディングを開始した。半年ほど秦琦もメンバーとして加わっていた。



 1992年10月、王勇(Key)がサポートを務める。同年末、1stアルバム『唐朝』を発売した。発売記念イベントは、北京の西単音像大世界で行われた。アルバムはその音楽性の高さから、中国で大ヒットとなる。このアルバムは台湾・香港・韓国・東南アジア・日本等、海外でも発売され、総売上枚数は、200万であった。メンバーの身長はみな180cm以上であり、ビジュアル面でも海外のハードロックバンドに決して負けなかった。

 ライブ活動は中国国内だけに止まらず、1993年2月、ドイツ・ベルリンで行われた“中国前衛文化月間”に崔健・眼鏡蛇楽隊・1989楽隊・王勇らとともに参加、そしてドイツの4都市を巡演した。4月には、「夢回唐朝」のMVが、“MTV”アジア最優秀MTV賞に輝いた。

 1994年10月には、日本の福岡で開かれた“国際文化節”に参加、中国現代文化と新音楽の代表者となる。12月17日には、香港紅磡体育館で開かれた“中国揺滾楽勢力”コンサートに張楚・何勇・竇唯とともに参加した。


2004年9月24日、上海の羅馬假日で行われたコンサートより 左から:老五(劉義君)・丁武

(撮影:YIREN)

 ロックバンドとして頂点を極めつつあったが、1995年5月11日に張炬が交通事故に遭い、死亡。ムードメーカーであった彼の死により、唐朝楽隊は解散の危機を迎える。  しかし7月、元呼吸楽隊のベーシスト・顧中をメンバーに加え、活動を再開した。この時、仨兒(Dr)がバンドの練習に参加したが、バンドに加入することはなかった。そして、深[土川]で小型のライブを行う。ただ8月には老五が脱退し、再び解散の危機となる。

 1996年初になり、KAISERが中国に戻ってきて、唐朝楽隊の練習に参加する。8月には正式に加入し、ここにおいて新たなる唐朝楽隊が誕生した。そのメンバーは丁武(Vo&G)・KAISER(G)・顧中(B)・趙年(Dr)。ただ、張炬死後から1997年までのバンド状態は決して良いものではなく、活動らしき活動はあまり行っていない。

 1998年になると、ニューアルバム発売に向けて本格的に活動を開始、ライブでは新曲をたくさん披露していく。6月には、第1回新郷揺滾音楽節に参加した。8月30日には、広西チワン族自治区南寧で行われた’98南寧中国揺滾音楽演唱会に出演した。9月になり、北京京文音像公司と契約、12月には大友光悦プロデュースによる2ndアルバム『演義』を発売する。1stアルバム発売から6年、再び世間の注目を浴びることとなった。

 1999年1月23日、雲南省昆明で行われた“拒絶毒品,珍愛生命(麻薬を拒み、命を大切に)”コンサートに8つのバンドとともに参加する。

 同年6月には、5月に起きたNATOのユーゴ中国大使館誤爆事件に際して、丁武とKAISERの意見が食い違ったことが原因により、KAISERがバンドを脱退してしまう。誰もが予想し得なかったことで、そのために6月19日に行われた“新郷第二届揺滾音楽節(ロックコンサート)”を急遽辞退することとなった。

 その1ヶ月後には、鐵風箏楽隊のボーカル兼ギターリストである虞洋が臨時メンバーとして加入し、7月28・29日は香港の高山劇場で行われた“中国揺滾新生代”音楽会に参加し、成功させた。彼は、身長が170cm代と唐朝楽隊の中では見劣りするが、そのテクニックは素晴らしく、老五・KAISERの後継者としても決して負けていない。やがて、正式なメンバーとなる。11月20日、寧夏回族自治区銀川市の銀川体育館で行われた“世紀狂biao---中国揺滾勢力演唱会”に参加した。12月には、中央電視台に出演するという快挙を成し遂げた。  2000年1月に発売されたオムニバス『真愛永恒』には、「花兒為什麼這様紅」と「明月千里寄相思」を発表する。3月1日には、『演義』と台湾オリジナルシングルが台湾で発売、数週間で5000枚を売り、なお台湾でも多くのファンがいたことを再認識させた。



1stアルバム発売時のメンバー 左から:趙年・丁武・劉義君(老五)・張炬



 9月16日には、北京のオリンピックスタジアムで行われた“2000年現代音楽演唱会”に参加し、10年前に行われた“90現代音楽演唱会”に引き続き、中国を代表するコンサートに出場した唯一のバンドとして、その高い実力と人気を見せ付けた。10月5日には、虞洋が脱退し、陳磊(G)が加わった。

 2001年9月19日、奥林匹克体育中心体育館で行われた北京サンミゲルビール賛助の“中国揺滾生力軍楽隊比賽総決賽(ロックバンドコンテスト決勝戦)”にゲスト出演した。

 2002年初、老五が復帰し、丁武がボーカルに専念することになった。2月14・15日には、天津の天津市体育中心で行われた“何夫人潤徳[ロ卑]酒狂歓夜”コンサートに出演した。5月1・2日、深[土川]の根拠地酒[ロ巴]でライブを行った。12月末、深[土川]で行われた歓楽谷音楽節に参加した。


2ndアルバム時(1997-1999/6)のメンバー 左から:趙年(Dr)・KAISER KUO(G)・丁武(Vo&G)・顧中(B)


 2003年7月25日、深[土川]の根拠地酒[ロ巴]で行われた“第三届深[土川]揺滾音楽周”に出演した。8月22日、朝陽公園で行われた炫特区激情狂歓夜“非主流音楽節”に参加した。11月、中国ロック初期の曲を集めたオムニバス『吶喊 為了中国曾経的揺滾』が発売となり、そこに「粉霧」が収録された。11月13日、台州で行われた台州美食節の開幕式に参加した。11月27日、仁倶楽部で行われた“理想不倒,向音楽致敬!”ライブに参加した。12月27日、南昌市紅谷灘市政広場で行われた“2003中国・南昌揺滾音楽節”に出演した。  2004年5月6日、西安の未央湖遊楽園でライブを行った。6月7日、地壇公園方沢壇内で行われた“芸術拒絶独品”コンサートに参加した。8月7日、寧夏回族自治区銀川市の賀蘭山の麓で行われた“中国揺滾的光輝道路”大型音楽節に出演し、2日目のトリを務めた。



唐朝楽隊のロゴマーク



 8月20日、第五大道広場で行われた“第五大道音楽周”に参加した。9月24日、上海の羅馬假日で行われたコンサートに出演した。12月17日、深[土川]の上歩根拠地酒[ロ巴]で、12月18日には深[土川]の南山根拠地酒[ロ巴]でライブを行った。

 2005年1月13日、北京糖果娯楽空間で行われた“Radio Aid--HIT FM88.7印度洋海嘯賑災義演(スマトラ島沖大地震チャリティーコンサート)”に参加した。2月26日、北京首都体育館で行われた“守望我們的精神家園:国家版権局版権保護-百名歌星演唱会”に参加した。5月、オムニバス『礼物』に曲を発表した。7月1日、北京工人体育場で行われた“和平的天空-記念世界反法西斯戦争勝利60周年大型演唱会”に参加した。7月28日、重慶の大田湾体育場で行われた“大田湾[口卑]酒節”に参加した。9月10日、北京汽車電影院で行われた“緑色北京-露天音楽節”に参加した。9月17日、北京朝陽公園で行われた“北京流行音楽節”に出演した。10月4日、深[土川]大梅沙太陽広場で行われた“第四届深[土川]黄金海岸旅遊節曁首届深[土川]百事可楽沙灘音楽節”に参加した。12月10日、広西チワン族自治区柳州市体育中心で行われた“超越夢想・激情柳州大型演唱会”に参加した。12月25日、桂林の桂林七星公園で行われた“2005揺滾中国・桂林音楽節”に参加した。12月31日、深[土川]の深[土川]体育館で行われた汪峰の“飛得更高”コンサートにゲスト出演した。


2006年の写真

左から:顧中・陳磊・丁武・趙年・老五

 2006年5月19日、昆明の昆明世博園で行われた“首届春城揺滾音楽節曁世博狂歓夜”に出演した。6月16日、瀋陽の火車頭体育館で行われた“記念中国揺滾20年”コンサートに参加した。7月21日、台湾台北県貢寮郷福隆県の福隆海水浴場で行われた“第七届貢寮国際海洋音楽祭”に参加した。7月23日、深[土川]の世界之窗で行われた“昨天-今天--南中国揺滾音楽節”に参加した。10月2日、広東省増城市増城広場で行われた“首届中国(増城)揺滾&[口卑]酒狂歓節曁第五届新塘国際牛仔服装節”に参加した。10月5日、北京国際雕塑公園北園で行われた“2006北京首届揺滾[口卑]酒節”に参加した。12月4日、深[土川]の根拠地酒[ロ巴]上歩店で行われた“深[土川]根拠地第六届音楽節”に参加した。12月5日、深[土川]の根拠地酒[ロ巴]南山店で行われた“深[土川]根拠地第六届音楽節”に参加した。  2007年1月28日、天津の巨川金海岸新生代休閑文化広場で行われた“浜海原創音楽節”に参加した。4月4日、星光現場音楽庁で行われた“STAND UP站起来 慈善募捐演唱会(肺癌となったレコーディングエンジニア・D哥 李國強のためのチャリティライブ)”に参加した。5月2・3日、四川省成都温江区の国色天郷天香劇場でライブを行った。5月16日、北京交通大学天佑会堂で行われた“2007MAXELL 驚音無敵校園創意音楽大賽京津賽区復賽”にゲスト出演した。6月6日、中国人民大学如論講堂で行われた“2007MAXELL 驚音無敵校園創意音楽大賽京津賽区決賽”にゲスト出演した。6月22日、河北省邯鄲の藍黛慢揺[ロ巴]でライブを行った。7月2日、香港の香港島金鐘の添馬艦(タマール広場)で行われた“擁抱十周年POP ROCK大派對”に出演した。7月14日、西安の曲江国際会展中心和諧広場で行われた“第五届西安曲江国際[口卑]酒節”に出演した。7月22日、内モンゴル自治区鄂爾多斯成吉思汗旅遊区で行われた“首届鄂爾多斯草原揺滾音楽会”に参加した。10月2日、蘇州の蘇州楽園で行われた“黄金周流行音楽節”に参加した。

 2008年3月19日、成都の驕子音楽庁で行われた“古井貢美酒音楽節”に参加した。5月30日、愚公移山で行われた[シ文]川大地震被災者チャリティライブに参加した。6月8日、済南の山東大学体育館で行われた“伊利優酸乳2008大学生音楽節”にゲスト出演した。6月、結成20周年記念となる3rdアルバム『浪漫騎士』が発売となった。6月13日、18庫LIVE HOUSEで『浪漫騎士』発表会を開いた。7月18日、西安の大唐芙蓉園南門で行われた“大唐芙蓉園流行音楽節”開幕式に参加した。9月12日、瀋陽の瀋陽龍脈後海公園で行われた“2008瀋陽後海音楽節”に参加した。10月24日、上海の上海大寧国際商業広場で行われた“第十届中国上海国際芸術節”に出演した。10月になり、1stアルバム『唐朝』がDVD付きで再版となった。12月2日、北京大学百周年紀念講堂で行われた“2008MAXELL 驚音無敵校園創意音楽大賽全国総決賽”にゲスト出演した。12月6日、山東省烟台の西南河体育館で行われた“交通銀行揺滾之夜”コンサートに参加した。12月25日、深[土川]の根拠地酒[ロ巴]南山店で行われた“深[土川]第八届根拠地揺滾音楽節”に参加した。12月26日、深[土川]の根拠地酒[ロ巴]上歩店で行われた“深[土川]第八届根拠地揺滾音楽節”に参加した。

 2009年1月、老五は再度バンドを脱退したため、丁武が再度ボーカル以外にギターを兼任するようになった。3月28日、江蘇省無錫の新世界国際広場で行われた“新世界両周年慶典曁2009揺滾音楽節”に参加した。8月28日、奥体中心北門足球場で行われた“夏日領航2009大型音楽季”に参加した。10月30日、寧波の梁祝文化公園で行われた“把愛唱響 - 中国揺滾情歌演唱会”に参加した。

 2010年1月16日、北京軍都山滑雪場で行われた“雪地電影音楽節”に参加した。


ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

EP

シングル

ソロ発表曲 

テンプレート:Solo List 50

参加アルバム 

アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考
北京揺滾群星夜色告別的揺滾1995演奏(クレジットにはないがメンバー全員が参加)
郭峰怀抱懐抱1999バックボーカル(複数で)非売品
郭峰怀抱経典郭峰2000バックボーカル(複数で)▼MVも
夜晩的騎士九拍I Kill You My Woman詞曲
夜晩的騎士九拍通俗歌曲VOL.2452003/5詞曲
天堂之門楽隊国际歌第三届附中現代音楽節2008/7編曲(クレジットにはないが、唐朝楽隊バージョンで演奏)
天堂之門楽隊天堂第四届附中現代音楽節2010詞曲
藍墻楽隊国际歌第四届附中現代音楽節2010編曲(クレジットにはないが、唐朝楽隊バージョンで演奏)
驚叫基督楽隊梦回唐朝(翻唱)永戦之海2011/10/15詞曲

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考
VCD摩登天空有声音楽雑誌 CALENDAR1999インタビュー
テレビ手拉手同一首歌 新北京新奥運 北京申辦2008奥運会2001演奏(黒豹楽隊蛍火虫楽隊輪回楽隊零点楽隊と)2008年オリピック誘致運動コンサートより▼海賊盤VCDあり
VCD音楽王国0022004/10自己紹介
DVD唐朝和平天空演唱会陳磊 八只手2008/5/13演奏2005年7月1日、北京工人体育場で行なわれた「和平的天空-記念世界反法西斯戦争勝利60周年大型演唱会」より

主要なライブ・コンサート

北京のバンド。1988年末、かつて黒豹楽隊のメンバーだった丁武とロックミュージシャン仲間のベーシスト・張炬がアメリカ華僑のKAISER KUO(郭怡廣)(G)・アメリカ人SARPO(薩保)(Dr)と出会い、4人が意気投合して唐朝楽隊を結成する。バンド名はKAISERが名づける。  丁武(Vo&G)と張炬は、アメリカ人2人から技術的な面や、音楽的に多大なる影響を受ける。やがて練習を重ねて、安楽居で行われたPARTYに参加した。唐朝楽隊が初めてライブを行った場所であった。この頃は、まだ作品を持っていなかった。東北へライブツアーなども行ったが、この時の唐朝楽隊の活動期間はたった2ヶ月で、1989年6月にはKAISERとSARPOは帰国、丁武は新疆へ旅立ち、張炬は大連に行ってしまい、唐朝楽隊は解散した。

 新疆から帰郷した丁武は同じく北京に戻った張炬と共に、唐朝楽隊の継続を心に決め、ギターリスト老五(劉義君)と経験豊富なドラマー趙年をメンバーに加え、活動を再開した。練習は、友達の楊軍の助けにより、中央美術学院12階建て宿舎の一室で行われた。楽器も壊れたものを使用したり、食事もままならなかったが、作品を創作し続けた。1989年12月30日の京城大酒店で開かれたPARTYでは、初めて自分たちの曲を演奏した。

 1990年2月、北京首都体育館で行われた“90現代音楽演唱会”に呼吸楽隊・眼鏡蛇女子楽隊・寶貝兄弟楽隊・1989楽隊・ADO楽隊とともに参加した。この時は張炬がボーカルを務め、「粉雾」など2曲を演奏し、大好評を得る。5月1日、台湾の滾石唱片と契約、レコーディングを開始した。半年ほど秦琦もメンバーとして加わっていた。



2002年の写真

左から:陳磊・顧中・丁武・老五・趙年


 1992年10月、王勇(Key)がサポートを務める。同年末、1stアルバム『唐朝』を発売した。発売記念イベントは、北京の西単音像大世界で行われた。アルバムはその音楽性の高さから、中国で大ヒットとなる。このアルバムは台湾・香港・韓国・東南アジア・日本等、海外でも発売され、総売上枚数は、200万であった。メンバーの身長はみな180cm以上であり、ビジュアル面でも海外のハードロックバンドに決して負けなかった。

 ライブ活動は中国国内だけに止まらず、1993年2月、ドイツ・ベルリンで行われた“中国前衛文化月間”に崔健・眼鏡蛇楽隊・1989楽隊・王勇らとともに参加、そしてドイツの4都市を巡演した。4月には、「夢回唐朝」のMVが、“MTV”アジア最優秀MTV賞に輝いた。

 1994年10月には、日本の福岡で開かれた“国際文化節”に参加、中国現代文化と新音楽の代表者となる。12月17日には、香港紅磡体育館で開かれた“中国揺滾楽勢力”コンサートに張楚・何勇・竇唯とともに参加した。


2004年9月24日、上海の羅馬假日で行われたコンサートより 左から:老五(劉義君)・丁武

(撮影:YIREN)

 ロックバンドとして頂点を極めつつあったが、1995年5月11日に張炬が交通事故に遭い、死亡。ムードメーカーであった彼の死により、唐朝楽隊は解散の危機を迎える。  しかし7月、元呼吸楽隊のベーシスト・顧中をメンバーに加え、活動を再開した。この時、[イ三]兒(Dr)がバンドの練習に参加したが、バンドに加入することはなかった。そして、深圳市で小型のライブを行う。ただ8月には老五が脱退し、再び解散の危機となる。

 1996年初になり、KAISERが中国に戻ってきて、唐朝楽隊の練習に参加する。8月には正式に加入し、ここにおいて新たなる唐朝楽隊が誕生した。そのメンバーは丁武(Vo&G)・KAISER(G)・顧中(B)・趙年(Dr)。ただ、張炬死後から1997年までのバンド状態は決して良いものではなく、活動らしき活動はあまり行っていない。

 1998年になると、ニューアルバム発売に向けて本格的に活動を開始、ライブでは新曲をたくさん披露していく。6月には、第1回新郷揺滾音楽節に参加した。8月30日には、広西チワン族自治区南寧で行われた’98南寧中国揺滾音楽演唱会に出演した。9月になり、北京京文音像公司と契約、12月には大友光悦プロデュースによる2ndアルバム『演義』を発売する。1stアルバム発売から6年、再び世間の注目を浴びることとなった。

 1999年1月23日、雲南省昆明で行われた“拒絶毒品,珍愛生命(麻薬を拒み、命を大切に)”コンサートに8つのバンドとともに参加する。

 同年6月には、5月に起きたNATOのユーゴ中国大使館誤爆事件に際して、丁武とKAISERの意見が食い違ったことが原因により、KAISERがバンドを脱退してしまう。誰もが予想し得なかったことで、そのために6月19日に行われた“新郷第二届揺滾音楽節(ロックコンサート)”を急遽辞退することとなった。

 その1ヶ月後には、鐵風箏楽隊のボーカル兼ギターリストである虞洋が臨時メンバーとして加入し、7月28・29日は香港の高山劇場で行われた“中国揺滾新生代”音楽会に参加し、成功させた。彼は、身長が170cm代と唐朝楽隊の中では見劣りするが、そのテクニックは素晴らしく、老五・KAISERの後継者としても決して負けていない。やがて、正式なメンバーとなる。11月20日、寧夏回族自治区銀川市の銀川体育館で行われた“世紀狂飆---中国揺滾勢力演唱会”に参加した。12月には、中央電視台に出演するという快挙を成し遂げた。  2000年1月に発売されたオムニバス『真愛永恒』には、「花兒為什麼這様紅」と「明月千里寄相思」を発表する。3月1日には、『演義』と台湾オリジナルシングルが台湾で発売、数週間で5000枚を売り、なお台湾でも多くのファンがいたことを再認識させた。


 9月16日には、北京のオリンピックスタジアムで行われた“2000年現代音楽演唱会”に参加し、10年前に行われた“90現代音楽演唱会”に引き続き、中国を代表するコンサートに出場した唯一のバンドとして、その高い実力と人気を見せ付けた。10月5日には、虞洋が脱退し、陳磊(G)が加わった。

 2001年9月19日、奥林匹克体育中心体育館で行われた北京サンミゲルビール賛助の“中国揺滾生力軍楽隊比賽総決賽(ロックバンドコンテスト決勝戦)”にゲスト出演した。

 2002年初、老五が復帰し、丁武がボーカルに専念することになった。2月14・15日には、天津の天津市体育中心で行われた“何夫人潤徳啤酒狂歓夜”コンサートに出演した。5月1・2日、深圳市の根拠地酒吧でライブを行った。12月末、深圳市で行われた歓楽谷音楽節に参加した。


2ndアルバム時(1997-1999/6)のメンバー 左から:趙年(Dr)・KAISER KUO(G)・丁武(Vo&G)・顧中(B)


 2003年7月25日、深圳市の根拠地酒吧で行われた“第三届深圳揺滾音楽周”に出演した。8月22日、朝陽公園で行われた炫特区激情狂歓夜“非主流音楽節”に参加した。11月、中国ロック初期の曲を集めたオムニバス『吶喊 為了中国曾経的揺滾』が発売となり、そこに「粉霧」が収録された。11月13日、台州で行われた台州美食節の開幕式に参加した。11月27日、仁倶楽部で行われた“理想不倒,向音楽致敬!”ライブに参加した。12月27日、南昌市紅谷灘市政広場で行われた“2003中国・南昌揺滾音楽節”に出演した。  2004年5月6日、西安の未央湖遊楽園でライブを行った。6月7日、地壇公園方沢壇内で行われた“芸術拒絶独品”コンサートに参加した。8月7日、寧夏回族自治区銀川市の賀蘭山の麓で行われた“中国揺滾的光輝道路”大型音楽節に出演し、2日目のトリを務めた。



唐朝楽隊のロゴマーク



 8月20日、第五大道広場で行われた“第五大道音楽周”に参加した。9月24日、上海の羅馬假日で行われたコンサートに出演した。12月17日、深圳市の上歩根拠地酒吧、12月18日には深圳市の南山根拠地酒吧。

 2005年1月13日、北京糖果娯楽空間で行われた“Radio Aid--HIT FM88.7印度洋海嘯賑災義演(スマトラ島沖大地震チャリティーコンサート)”に参加した。2月26日、北京首都体育館で行われた“守望我們的精神家園:国家版権局版権保護-百名歌星演唱会”に参加した。5月、オムニバス『礼物』に曲を発表した。7月1日、北京工人体育場で行われた“和平的天空-記念世界反法西斯戦争勝利60周年大型演唱会”に参加した。7月28日、重慶の大田湾体育場で行われた“大田湾啤酒節”に参加した。9月10日、北京汽車電影院で行われた“緑色北京-露天音楽節”に参加した。9月17日、北京朝陽公園で行われた“北京流行音楽節”に出演した。10月4日、深圳大梅沙太陽広場で行われた“第四届深圳黄金海岸旅遊節曁首届深圳百事可楽沙灘音楽節”に参加した。12月10日、広西チワン族自治区柳州市体育中心で行われた“超越夢想・激情柳州大型演唱会”に参加した。12月25日、桂林の桂林七星公園で行われた“2005揺滾中国・桂林音楽節”に参加した。12月31日、深圳市の深圳体育館で行われた汪峰の“飛得更高”コンサートにゲスト出演した。


2006年の写真

左から:顧中・陳磊・丁武・趙年・老五

 2006年5月19日、昆明の昆明世博園で行われた“首届春城揺滾音楽節曁世博狂歓夜”に出演した。6月16日、瀋陽の火車頭体育館で行われた“記念中国揺滾20年”コンサートに参加した。7月21日、台湾台北県貢寮郷福隆県の福隆海水浴場で行われた“第七届貢寮国際海洋音楽祭”に参加した。7月23日、深圳市の世界之窗で行われた“昨天-今天--南中国揺滾音楽節”に参加した。10月2日、広東省増城市増城広場で行われた“首届中国(増城)揺滾&啤酒狂歓節曁第五届新塘国際牛仔服装節”に参加した。10月5日、北京国際雕塑公園北園で行われた“2006北京首届揺滾啤酒節”に参加した。12月4日、深圳市の根拠地酒吧上歩店で行われた“深圳根拠地第六届音楽節”に参加した。12月5日、深圳市の根拠地酒吧南山店で行われた“深圳根拠地第六届音楽節”に参加した。  2007年1月28日、天津の巨川金海岸新生代休閑文化広場で行われた“浜海原創音楽節”に参加した。4月4日、星光現場音楽庁で行われた“STAND UP站起来 慈善募捐演唱会(肺癌となったレコーディングエンジニア・D哥 李國強のためのチャリティライブ)”に参加した。5月2・3日、四川省成都温江区の国色天郷天香劇場でライブを行った。5月16日、北京交通大学天佑会堂で行われた“2007MAXELL 驚音無敵校園創意音楽大賽京津賽区復賽”にゲスト出演した。6月6日、中国人民大学如論講堂で行われた“2007MAXELL 驚音無敵校園創意音楽大賽京津賽区決賽”にゲスト出演した。6月22日、河北省邯鄲の藍黛慢揺吧。7月2日、香港の香港島金鐘の添馬艦(タマール広場)で行われた“擁抱十周年POP ROCK大派對”に出演した。7月14日、西安の曲江国際会展中心和諧広場で行われた“第五届西安曲江国際啤酒節”に出演した。7月22日、内モンゴル自治区鄂爾多斯成吉思汗旅遊区で行われた“首届鄂爾多斯草原揺滾音楽会”に参加した。10月2日、蘇州の蘇州楽園で行われた“黄金周流行音楽節”に参加した。

 2008年3月19日、成都の驕子音楽庁で行われた“古井貢美酒音楽節”に参加した。5月30日、愚公移山で行われた汶川大地震被災者チャリティライブに参加した。6月8日、済南の山東大学体育館で行われた“伊利優酸乳2008大学生音楽節”にゲスト出演した。6月、結成20周年記念となる3rdアルバム『浪漫騎士』が発売となった。6月13日、18庫LIVE HOUSEで『浪漫騎士』発表会を開いた。7月18日、西安の大唐芙蓉園南門で行われた“大唐芙蓉園流行音楽節”開幕式に参加した。9月12日、瀋陽の瀋陽龍脈後海公園で行われた“2008瀋陽後海音楽節”に参加した。10月24日、上海の上海大寧国際商業広場で行われた“第十届中国上海国際芸術節”に出演した。10月になり、1stアルバム『唐朝』がDVD付きで再版となった。12月2日、北京大学百周年紀念講堂で行われた“2008MAXELL 驚音無敵校園創意音楽大賽全国総決賽”にゲスト出演した。12月6日、山東省烟台の西南河体育館で行われた“交通銀行揺滾之夜”コンサートに参加した。12月25日、深圳市の根拠地酒吧南山店で行われた“深圳第八届根拠地揺滾音楽節”に参加した。12月26日、深圳市の根拠地酒吧上歩店で行われた“深圳第八届根拠地揺滾音楽節”に参加した。

 2009年1月、老五は再度バンドを脱退したため、丁武が再度ボーカル以外にギターを兼任するようになった。3月28日、江蘇省無錫の新世界国際広場で行われた“新世界両周年慶典曁2009揺滾音楽節”に参加した。8月28日、奥体中心北門足球場で行われた“夏日領航2009大型音楽季”に参加した。10月30日、寧波の梁祝文化公園で行われた“把愛唱響 - 中国揺滾情歌演唱会”に参加した。

 2010年1月16日、北京軍都山滑雪場で行われた“雪地電影音楽節”に参加した。



外部リンク