黒豹楽隊

提供:Chinese Rock Database
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黒豹楽隊
Heibao 11.jpg
基本情報
中国語名(簡体字) 黑豹
中国語名(繁体字) 黑豹
拼音 Heibao
発音転記 ヘイバオ
英語名・外国語名 一般:BLACK PANTHER
4thアルバム後:BLACK LEOPARD
5thアルバム:HOT-BLOODED POWER
出身地 北京市
ジャンル ハードロック
メンバー 張淇
李彤


(写真:)

黒豹楽隊(ヘイバオ、Heibao)は、北京市で活動しているバンド。中国人(華僑)の中でアルバムが最も売れたバンドである。

メンバー

過去に在籍したメンバー

張克鵬(張克芃、大棚) ボーカル(? - 2013年3月) -- 2008年、文章と共に汶川大地震被災者のための応援歌「永不放棄」を歌った。2010年1月17日、北京市星光現場音楽庁で行なわれたライブに参加。2011年1月8日、北京市国家奥林匹克体育中心で行なわれたライブに参加。

サポートメンバー

経歴

1990年代、華人(中国人、華僑)の中で、最も売れたロックバンド。  1986年、郭傳林らが北京で沙棘藝術團を結成する。しかし、会社と関係が折り合わなく、1987年になり契約を破棄、黒豹楽隊と名称を変更する。李[丹彡]が名付け親であった。当時のメンバーには丁武(Vo&G)・李[丹彡](G)・王文傑(B)・程偉・王文芳(Dr)・宋英雲・董鵬(Key)がいた。1988年、郭傳林が演奏メンバーから外れ、マネージメント業に専念する。同じ時、丁武が脱退し、活動が休止となりかけた頃、巒樹(Key)と竇唯(Vo)をメンバーに加え、活動を再開した。しかし、この頃は金もなく、演奏する設備もなく、メンバーの心は黒豹楽隊から別のところにあった。郭傳林のおかげでどうにか、天安門事件後の困難を乗り切る。

 1990年、趙明義(Dr)を加え、メンバーが竇唯(Vo)・李[丹彡](G)・王文傑(B)・趙明義(Dr)・巒樹(Key)となり、固定する。この時、最初のオリジナル作品「臉譜」を創作する。5月、“深[土川]之春”コンサートに呼吸楽隊・1989楽隊・眼鏡蛇楽隊・常寛とともに参加する。コンサートは大成功となり、その結果、黒豹楽隊は多くのメディアから注目を浴びるようになった。この成功で、香港勁石公司(滾石公司の香港の子会社)との契約交渉が始まる。



2005年3月のメンバー 左から:趙明義・李[丹彡]・張克[艸/凡]・王文傑・惠鵬


 1991年、香港勁石公司と契約し、2ヶ月の間にレコーディングとMVを製作する。8月になり、香港と台湾で1stアルバムが発売となった。9月には、「Don't Break My Heart」が香港の音楽ランキングで、3週ほど1位に輝き、“大陸で最も優秀なロックバンド”と称される。間もなくして台湾の滾石唱片(ROCK RECORDS)と契約する。11月には、香港で行われた“嘉士伯音楽会”に参加した。

 1992年12月、大陸でもアルバムが発売されることとなるが、大陸盤が発売されるまでの1年の間に、大陸中で多くの海賊盤が出回ってしまう。1stアルバムは、正規盤で150万本の大ヒットとなるが、海賊盤も同じくらいの本数が出回ってしまった。海賊盤に対し、レコード会社の対応に煮え切らないメンバーは滾石唱片との契約を破棄した。


1stアルバムの頃

手前が竇唯

 当時、ロックアルバムは崔健しか発売していなかったため、ロックを知らない人々がこぞって彼らのアルバムに興味を示したことが売れた要因であろう。もちろん、アルバムの完成度はとても高いものであった。このアルバムの売上を超えたバンドは彼ら以前にも以後にも存在しない。当時、黒豹人気は彼らの知らないところにまで広まっており、雲南と長春では黒豹楽隊の名前を騙ったバンドが出現、かってにコンサートを開いていた。  このように、人気は絶頂であったが、1991年10月、突然ボーカルの竇唯が脱退してしまう。そのため、秦[王奇]をボーカルとしてテストしたが、バンドに合わず、キーボードの巒樹がボーカルを担当することになった。1992年5月、王勇(Key)がサポートを務める。

 1993年4月より、馮小波(Key)が加入した。4月24・25日には、北京の首都体育館で1989楽隊と“臨終關懐(臨終まで配慮する)”合同チャリティコンサートを開く。



2000年12月24日、温州市体育館で行われたコンサートより



 8月、2ndアルバム『光芒之神』を発表した。

 1994年4月には、日本のJVCと契約、11月には『光芒之神』を大友光悦ほか、日本人スタッフの手によりリミックスされ、新たな『光芒之神』として発売された。しかし、この頃には巒樹が脱退し、秦勇がボーカルとしてメンバーに加わっていた。

 1995年4月は、ラサで初のロックコンサートを開く。これは、チベットの歴史が始まって以来の快挙であった。

 1996年2月には、3rdアルバム『無是無非』がアジア地区で同時発売となる。1ヶ月足らずで、45万本を販売した。3月には、来日して東京・渋谷のクラブクアトロで単独ライブを行い、日本の音楽界に黒豹楽隊の存在を知らしめた。のち、香港の棉花倶楽部でソロライブを行う。5月には、香港の紅[石勘]体育館で行われた“我愛普通人(私は普通の人が好き)”コンサートに出演する。


4thアルバム用に撮られた写真

左から:馮小波(Key)・王文傑(B)・趙明義(Dr)・李[丹彡](G)・秦勇(Vo)

 1997年には、全国60都市で公演する。  1998年5月には4thアルバム『不能譲我的煩悩没有機会表白』がアジア地区で同時発売となる。9月18日には再び来日、東京の池袋AMULUXで開催された“ASIAN BEATS 夜総会’98”に出演する夜総会バンドのゲストとして、ライブを行った。この後、大阪(UEDA HEAT BEAT)と九州(福岡“アジア・マンス”)でもライブを行った。10月8日には、中国北京奥林匹克中心体育場でコンサートを開く。このコンサートは、北京ではかつてないほどの観客動員数を記録したほか、近年大型ロックコンサートを開くことが禁じられていた北京で開いたということで、とても意義のあるものであった。その時の音源は、翌年2月になってアルバム化された。

 1999年1月23日、雲南省昆明で行われた“拒絶毒品,珍愛生命(麻薬を拒み、命を大切に)”コンサートに8つのバンドとともに参加する。6月、“新郷第二届揺滾音楽節”に参加したほか、各地でコンサートを開くが、年末には、馮小波が脱退する。代わりに惠鵬(Key)が加入し、2000年には「桑塔露[王其]亜(サンタルチア)」、「体会(Rimix)」を発表する。

 春節(旧正月)過ぎから5月までの3回、中央電視台の番組「音画時尚」に出演し、「桑塔露[王其]亜(サンタルチア)」を演奏。ロックバンドとしては快挙であった。4月には、雲南世界博園一周年記念のイベントに参加した。



竇唯脱退後のメンバー 左から:趙明義(Dr)・王文傑(B)・李[丹彡](G)・巒樹(Vo&Key)

雑誌『環球歌壇 中外明星画刊』(中国電影出版社、1992年)より

(写真提供:幸治隆子さん)



 9月16日には、北京のオリンピックスタジアムで行われた“2000年現代音楽演唱会”に参加してトリを務め、なお中国一のロックバンドであるところを見せ付けた。10月、長年マネージメントを担当してきた竹書文化との契約が切れてから初めての曲、「没有[イ尓]」を発表した。同月8日には、北京工人体育場で行われた原創反盗維権大型演唱会に参加した。

 2001年2月には、1998年10月8日に中国北京奥林匹克中心体育場で行われたコンサートが、VCDとなって発売された。5月12日、日壇公園で行われた“第三回ハイネケン夏季音楽祭”に出演した。9月19日、奥林匹克体育中心体育館で行われた北京サンミゲルビール賛助の“中国揺滾生力軍楽隊比賽総決賽(ロックバンドコンテスト決勝戦)”にゲスト出演した。

 2002年、北京麒麟童文化と契約する。7月11日、香港の伊利沙白体育館で行われた“国際揺滾音楽節”に参加した。12月25日、深[土川]の歓楽谷でソロライブを行った。

 2003年9月16日、北京朝陽公園で行われた“2003首届中国国際飲料節”に出演した。10月11日、北京展覧館劇場で行われた“北京中日青春歌友会”にSilver Ash楽隊や張亞東、日本の坂本美雨やBBBBと共に出演した。11月、中国ロック初期の曲を集めたオムニバス『吶喊 為了中国曾経的揺滾』が発売となり、そこに「別去糟踏」と「臉譜」が収録された。12月27日、南昌市紅谷灘市政広場で行われた“2003中国・南昌揺滾音楽節”に出演した。


1999年後半からのメンバー 左から:李[丹彡](G)・趙明義(Dr)・秦勇(Vo)・惠鵬(Key)・王文傑(B)


 2004年1月30日、シンガポールで行われたロック音楽祭に参加した。7月、5thアルバム『黒豹Ⅴ』が発売となった。8月6日、寧夏回族自治区銀川市の賀蘭山の麓で行われた“中国揺滾的光輝道路”大型音楽節に出演し、初日のトリを務めた。  2005年3月、秦勇が脱退し、新しく張克[艸/凡](大棚)(Vo)が加入した。5月1日、西安の陝西紅河谷森林公園で行われた“紅河谷現代音楽節”に参加した。5月27日、北京首都体育館で行われたBEYONDのラストコンサートに、前座として出演した。7月1日、北京工人体育場で行われた“和平的天空-記念世界反法西斯戦争勝利60周年大型演唱会”に参加した。7月30日、広西チワン族自治区北海の銀灘広場で行われた“北海国際海灘旅遊文化節”に参加した。

 2006年5月26日、哈爾濱の哈爾濱国際会展中心体育館で行われた“揺滾・経典中国-哈爾濱[口卑]酒演唱会”に参加した。6月17日、河北省唐山の唐山市体育中心田径場で行われた“唐山[口卑]酒揺滾演唱会”に参加した。7月20日、台湾台北県貢寮郷福隆県の福隆海水浴場で行われた“第七届貢寮国際海洋音楽祭”に参加した。7月22日、深[土川]の世界之窗で行われた“昨天-今天--南中国揺滾音楽節”に参加した。10月2日、北京国際雕塑公園北園で行われた“2006北京首届揺滾[口卑]酒節”に参加した。

 2007年3月2-4日、雲南省瀾滄市雲県で行われた“2007年度瀾滄江[口卑]酒狂歓節”に参加した。4月4日、星光現場音楽庁で行われた“STAND UP站起来 慈善募捐演唱会(肺癌となったレコーディングエンジニア・D哥 李國強のためのチャリティライブ)”に参加した。6月23日、石家庄の滾石娯楽城でライブを行った。7月22日、西安の曲江国際会展中心和諧広場で行われた“第五届西安曲江国際[口卑]酒節”に出演した。7月28日、海南省三亜市の亜龍湾希爾頓酒店で行われた“第四届沙灘慈善音楽会”に参加した。8月3日、長春の金樽酒[ロ巴]でライブを行った。

 2008年2月1・2日、北京工人体育館で行われた“BEYOND双傑北京演唱会”のゲストを務めた。やがて、普天同慶娯楽と契約した。そして、英語名をHot-Blooded Powerとした。3月19日、成都の驕子音楽庁で行われた“古井貢美酒音楽節”に参加した。4月7日、安徽省淮南市の淮南煤礦会堂で行われた“古井貢美酒音楽節”に参加した。4月9日、安徽省阜陽市の阜陽大劇院で行われた“古井貢美酒音楽節”に参加した。6月25日、星光現場音楽庁で“黒豹楽隊成立20周年記念活動啓動演唱会”を開いた。7月5日、四川省綿陽の五一広場で行われた“用吶喊釈放悲傷,用歌声唱響希望”慰問コンサートに参加した。9月30日、河北省唐山の月[土它]島で行われた“首届月[土它]島海洋音楽節”に参加した。

 2010年1月31日、黒龍江省大慶の大慶歌劇院でコンサートを開いた。

 大棚は2008年、文章と共に[シ文]川大地震被災者のための応援歌「永不放棄」を歌った。2010年1月17日、星光現場音楽庁で行われた“過年[口婁]首届揺滾春晩聯歓会”に参加した。

  

 

 


ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

EP

シングル

映像作品

プロモーション・アルバム

プロモーション・シングル

デモテープ

コラボレーション・アルバム

スプリット・アルバム

ソロ発表曲 

曲名アルバム名発表年備考
別去糟蹋中国火壹1992/12竇唯がボーカル
別去糟蹋中国大揺滾 - 献給国際減災十年1993/1/8巒樹がボーカル▽『中国火壹』と同じ
別去糟蹋大揺大擺1999/2竇唯がボーカル▽『中国火壹』と同じ
別去糟蹋中国人今天説不1999秦勇がボーカル▽1999年5月13日、深圳市の世界之窓で行われたNATOによるユーゴの中国大使館誤爆抗議コンサート▼VCD
別去糟蹋揺滾中国楽勢力十年精選第一輯2001/4竇唯がボーカル▽『中国火壹』と同じ
别去糟蹋揺滾柔情1996クレジットは竇唯与黒豹楽隊▽1stアルバムと同じ
无地自容中国大揺滾--献給国際減災十年1993/1/8巒樹がボーカル
无地自容揺滾衝撃波11994巒樹がボーカル
无地自容ROCK IN CHINA1996竇唯がボーカル▽1stアルバムと同じ
无地自容20世紀中国揺滾大系11999秦勇がボーカル▽『狂飆・激情』と同じ▽『揺滾衝撃波3』も
无地自容大揺大擺1999/2竇唯がボーカル▽1stアルバムと同じ
无地自容滾石字典(国語部)2000/6竇唯がボーカル▽1stアルバムと同じ
无地自容青春的童話テレビドラマの挿入歌▽学内バンドが演奏しているほか、カラオケで歌っている▽ボーカルは竇唯の声
光芒之神中国揺滾精華版(第二集)1994?巒樹がボーカル▽アルバムジャケを見る限り、馮小波巒樹が一緒に写っており、巒樹が脱退する直前にレコーディングしたものと思われる
爱的箴言告別的揺滾1995秦勇がボーカル
爱的箴言《同一首歌》相聚2000 第2部2000秦勇がボーカル▽CCTVで放映された大型歌番組▼VCD
爱的箴言同一首歌2001以前VCDで出たもの▽ジャケットは「爱的真言」となっている▼DVD
爱人告別的揺滾1995秦勇がボーカル
DON'T BREAK MY HEART東方之珠III 葬心1992/7竇唯がボーカル▽1stアルバムと同じ
DON'T BREAK MY HEART揺滾柔情1996クレジットは竇唯与黒豹楽隊▽1stアルバムと同じ
DON'T BREAK MY HEART快楽天堂之重拾旧歓1998/12竇唯がボーカル▽1stアルバムと同じ
DON'T BREAK MY HEART揺滾霊魂中国火1999/10竇唯がボーカル▼MVも付いている▽1stアルバムと同じ
DON'T BREAK MY HEART希望之光 精選輯2000竇唯がボーカル▽1stアルバムと同じ
DON'T BREAK MY HEARTHeineken節拍夏季音楽節2001▼MV▽2006年5月12日に行なわれた「第三回ハイネケン夏季音楽祭」のプロモーション用VCDだが映像は普通のもの
DON'T BREAK MY HEART中国火2003竇唯がボーカル▽1stアルバムと同じ
TAKE CARE
TAKE CARE2001/1竇唯がボーカル▽1stアルバムと同じ
怕你为自己流泪揺滾柔情1996クレジットは竇唯与黒豹楽隊▽1stアルバムと同じ
脸谱揺滾北京1993巒樹がボーカル
脸谱揺滾衝撃波21994巒樹がボーカル▽曲が一部しか入っていない
脸谱中国揺滾経典1995巒樹がボーカル▽『揺滾北京』と同じ
脸谱[流行・揺滾 王曉京制作歌曲精選'90~'97 2]]1997巒樹がボーカル▽『揺滾北京』と同じ
脸谱吶喊 為了中国曾経的揺滾2003/11巒樹がボーカル▽『揺滾北京』と同じ
放心走吧実力再現1997秦勇がボーカル▼MV
放心走吧原創反盗維権大型演唱会2000ライブ▼VCD
放心走吧1998?English Version▽アルバム未収録▽ホームページ上からダウンロードできた
朝前走実力再現1997秦勇がボーカル▼MV
少年中国七月一日生1997/7/1秦勇がボーカル
百年巨变七月一日生1997/7/1秦勇がボーカル
高兴就来难过就走20世紀中国揺滾大系21999秦勇がボーカル▽4thアルバムと同じ▽『揺滾衝撃波4』も
桑塔露琪亚真愛永恒2000/1秦勇と程志がボーカル▽「サンタルチア」をカバー
体会真愛永恒2000/1秦勇がボーカル▽過去に発表した作品をテクノミックスしたもの
没有你Heineken節拍夏季音楽節2001▼MV▽2006年5月12日に行なわれた「第三回ハイネケン夏季音楽祭」のプロモーション用VCDだが映像は普通のもの
靠近我揺滾中国楽勢力十年精選第二輯2001/4竇唯がボーカル▽1stと同じ
靠近我中国揺滾手冊2006/5
别来纠缠我中国揺滾生力軍楽隊比賽総決賽20012001年9月19日、奥林匹克体育中心体育館でのライブ▼VCD

参加アルバム 

アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考

主要なライブ・コンサート

1990年代、華人(中国人、華僑)の中で、最も売れたロックバンド。  1986年、郭傳林らが北京で沙棘藝術團を結成する。しかし、会社と関係が折り合わなく、1987年になり契約を破棄、黒豹楽隊と名称を変更する。李[丹彡]が名付け親であった。当時のメンバーには丁武(Vo&G)・李[丹彡](G)・王文傑(B)・程偉・王文芳(Dr)・宋英雲・董鵬(Key)がいた。1988年、郭傳林が演奏メンバーから外れ、マネージメント業に専念する。同じ時、丁武が脱退し、活動が休止となりかけた頃、巒樹(Key)と竇唯(Vo)をメンバーに加え、活動を再開した。しかし、この頃は金もなく、演奏する設備もなく、メンバーの心は黒豹楽隊から別のところにあった。郭傳林のおかげでどうにか、天安門事件後の困難を乗り切る。

 1990年、趙明義(Dr)を加え、メンバーが竇唯(Vo)・李[丹彡](G)・王文傑(B)・趙明義(Dr)・巒樹(Key)となり、固定する。この時、最初のオリジナル作品「臉譜」を創作する。5月、“深圳之春”コンサートに呼吸楽隊・1989楽隊・眼鏡蛇楽隊・常寛とともに参加する。コンサートは大成功となり、その結果、黒豹楽隊は多くのメディアから注目を浴びるようになった。この成功で、香港勁石公司(滾石公司の香港の子会社)との契約交渉が始まる。



2005年3月のメンバー 左から:趙明義・李[丹彡]・張克[艸/凡]・王文傑・惠鵬


 1991年、香港勁石公司と契約し、2ヶ月の間にレコーディングとMVを製作する。8月になり、香港と台湾で1stアルバムが発売となった。9月には、「Don't Break My Heart」が香港の音楽ランキングで、3週ほど1位に輝き、“大陸で最も優秀なロックバンド”と称される。間もなくして台湾の滾石唱片(ROCK RECORDS)と契約する。11月には、香港で行われた“嘉士伯音楽会”に参加した。

 1992年12月、大陸でもアルバムが発売されることとなるが、大陸盤が発売されるまでの1年の間に、大陸中で多くの海賊盤が出回ってしまう。1stアルバムは、正規盤で150万本の大ヒットとなるが、海賊盤も同じくらいの本数が出回ってしまった。海賊盤に対し、レコード会社の対応に煮え切らないメンバーは滾石唱片との契約を破棄した。


1stアルバムの頃

手前が竇唯

 当時、ロックアルバムは崔健しか発売していなかったため、ロックを知らない人々がこぞって彼らのアルバムに興味を示したことが売れた要因であろう。もちろん、アルバムの完成度はとても高いものであった。このアルバムの売上を超えたバンドは彼ら以前にも以後にも存在しない。当時、黒豹人気は彼らの知らないところにまで広まっており、雲南と長春では黒豹楽隊の名前を騙ったバンドが出現、かってにコンサートを開いていた。  このように、人気は絶頂であったが、1991年10月、突然ボーカルの竇唯が脱退してしまう。そのため、秦[王奇]をボーカルとしてテストしたが、バンドに合わず、キーボードの巒樹がボーカルを担当することになった。1992年5月、王勇(Key)がサポートを務める。

 1993年4月より、馮小波(Key)が加入した。4月24・25日には、北京の首都体育館で1989楽隊と“臨終關懐(臨終まで配慮する)”合同チャリティコンサートを開く。



2000年12月24日、温州市体育館で行われたコンサートより



 8月、2ndアルバム『光芒之神』を発表した。

 1994年4月には、日本のJVCと契約、11月には『光芒之神』を大友光悦ほか、日本人スタッフの手によりリミックスされ、新たな『光芒之神』として発売された。しかし、この頃には巒樹が脱退し、秦勇がボーカルとしてメンバーに加わっていた。

 1995年4月は、ラサで初のロックコンサートを開く。これは、チベットの歴史が始まって以来の快挙であった。

 1996年2月には、3rdアルバム『無是無非』がアジア地区で同時発売となる。1ヶ月足らずで、45万本を販売した。3月には、来日して東京・渋谷のクラブクアトロで単独ライブを行い、日本の音楽界に黒豹楽隊の存在を知らしめた。のち、香港の棉花倶楽部でソロライブを行う。5月には、香港の紅磡体育館で行われた“我愛普通人(私は普通の人が好き)”コンサートに出演する。


   

 


2006年5月26日、哈爾濱の哈爾濱国際会展中心体育館で行われた“揺滾・経典中国-哈爾濱啤酒演唱会”に参加した。 6月17日、河北省唐山の唐山市体育中心田径場で行われた“唐山啤酒揺滾演唱会”に参加した。 7月20日、台湾台北県貢寮郷福隆県の福隆海水浴場で行われた“第七届貢寮国際海洋音楽祭”に参加した。 7月22日、深圳市の世界之窗で行われた“昨天-今天--南中国揺滾音楽節”に参加した。 10月2日、北京国際雕塑公園北園で行われた“2006北京首届揺滾啤酒節”に参加した。

2007年3月2-4日、雲南省瀾滄市雲県で行われた“2007年度瀾滄江啤酒狂歓節”に参加した。 4月4日、星光現場音楽庁で行われた“STAND UP站起来 慈善募捐演唱会(肺癌となったレコーディングエンジニア・D哥 李國強のためのチャリティライブ)”に参加した。 6月23日、石家庄の滾石娯楽城でライブを行った。

8月3日、長春の金樽酒吧

2008年2月1・2日、北京工人体育館で行われた“BEYOND双傑北京演唱会”のゲスト

7月5日、四川省綿陽の五一広場で行われた“用吶喊釈放悲傷,用歌声唱響希望”慰問コンサートに参加した。

9月30日、河北省唐山の月[土它]島で行われた“首届月[土它]島海洋音楽節

外部リンク