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*'''周侠''' [[キーボード]](2018年 -) -- 2016年2月にもライブに参加したことがある。2017年5月1日、[[Jazz Rubik/2017年5月1日|Jazz Rubik]]でライブを行なった。
  
 
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*'''[[張永光]]''' [[ドラム]](1987年 - 1989年後半,1993年,2006年? - 2014年?) -- 元・[[ADO楽隊]]のメンバー。新長征路上的揺滾ツアーに参加後脱退し、その後復帰したが、2014年には他界。
 
*'''[[張永光]]''' [[ドラム]](1987年 - 1989年後半,1993年,2006年? - 2014年?) -- 元・[[ADO楽隊]]のメンバー。新長征路上的揺滾ツアーに参加後脱退し、その後復帰したが、2014年には他界。
*'''[[貝貝]]''' [[ドラム]](1998年 - 2000年代後半,2014年? - 2018年?) -- 『[[無能的力量(崔健)|無能的力量]]』のレコーディングに参加。たまに[[ラップ]]も担当。
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*'''[[貝貝]]''' [[ドラム]](1998年 - 2000年代後半,2014年? - 2017年?) -- 『[[無能的力量(崔健)|無能的力量]]』のレコーディングに参加。たまに[[ラップ]]も担当。
 
*'''夏佳''' [[キーボード]](2005年? - 2018年?) -- 2001年、[[夏佳爵士三重奏]]を結成した。
 
*'''夏佳''' [[キーボード]](2005年? - 2018年?) -- 2001年、[[夏佳爵士三重奏]]を結成した。
  

2020年12月25日 (金) 12:51時点における版

崔健
Cuijian 43.jpg
2004年10月21日、上海市新天地ARKで行なわれたライブより。(撮影:YIREN
基本情報
中国語名(簡体字) 崔健
中国語名(繁体字) 崔健
拼音 Cui Jian
発音転記 ツォイ ジエヌ
別名 老崔、崔哥
出生日 1961年8月2日
血液型 A
学歴 北京歌舞団
出身地 北京市
担当楽器 ボーカルギタートランペットチャルメラ
ジャンル 中国ロック西北風ワールドミュージックジャズラップ(1997年以降)・エレクトロニカ(1998年以降)
職業 楽団演奏家(1978年 - 1987年5月)・歌手俳優映画監督アートディレクター
活動期間 1984年 -
メンバー 崔健
艾迪
劉元
劉玥
魯超
周侠
1986年5月9日のコンサート。ビッグバンド形式で参加。左手前から:劉元・崔健・王迪。後ろの「世」の隣:張勇。(写真提供:周俭、优蝶
1987年、北京市市内の大学のでのライブ。髪を短くしたのはこの時だけである。(写真提供:周俭、优蝶
1990年のメンバーの写真。(写真提供:周俭、优蝶
1992年12月、北京展覧館劇場でのコンサート前の練習写真。(写真提供:周俭、优蝶
1999年前後の崔健。
1989年3月、天安門広場劉元(左)と共に。(写真:北京音楽台
1990年前後、天安門広場にて。(写真:北京音楽台
2003年9月19日、上海市新天地ARKでのライブより。(撮影:YIREN
2004年10月21日、上海市新天地ARKで行なわれたライブより。Eddie劉玥以外はGeorge Lynch(G)やドイツ人ドラマーが参加するなど、通常の崔健楽隊とは異なる特別編成であった。(撮影:YIREN

崔健(ツォイ ジエヌ、Cui Jian、1961年8月2日 -)は、北京市で活動している歌手中国ロックの第一人者で、「中国ロックの父」と呼ばれる。朝鮮族

メンバー

過去に在籍したメンバー

サポートメンバー

経歴

中国ロックの幕開け

父親は北京空軍軍楽隊のトランペット奏者で、母親は朝鮮族舞踏団と、音楽に関する家庭で育った。1975年、父親からトランペットを教わる。1976年、父親に400元でカセットデッキを買ってもらった。1978年から北京交響楽団のトランペット奏者となる。1980年、20元でギターを買ったのと同時に、ギターの勉強を始めた。1981年、北京歌舞団のトランペット奏者となる。この頃、外国から来た留学生と旅行者が持って来ていた洋楽のカセットを聴き始め、それからロックを好きになり、ギターを勉強しながら、歌を歌い始めた。

1984年11月、七合板楽隊を結成する。この時はまだオリジナル曲が無く、洋楽のカバーを歌っていただけであった。そこで、多くの洋楽を聴いた経験を生かして、オリジナル曲を創作した。最初の作品は「不是我不明白」であった。1985年6月、七合板楽隊は解散してしまった。その後、不倒翁楽隊のライブに何回か参加した。

1986年5月、国際和平年の音楽会全国第一届百名歌星演唱会100名スターコンサート)上で、壊れたギターを抱え、ジーンズの両足の長さが揃っていないような、小汚い格好で舞台に上がり、「一无所有」(「一無所有」)を歌った。彼を見た観衆は最初何事かと思っていたが、この曲を聴いた瞬間、いままでの中国音楽には無かった、新しいリズム・歌詞に震え上がった。のち、このコンサートで歌った崔健の「一无所有」こそが、中国ロックの幕開けだと言われるようになる。

1987年1月、首都体育館でロックスタイルで「南泥湾」を歌った。これが文化部の耳に入り、崔健の音楽は、公共電波から一切の放送を禁止させられることになり、5月にはその影響で北京交響楽団を辞めさせられた。ただ、これが契機となり、ADO楽隊との活動を始め、初期の崔健のメロディーに大きな影響を与えることになった。

1988年1月、北京中山公園音楽堂で初めてのソロコンサートを開く。同年、ソウルオリンピック前夜祭特別番組の世界中継のテレビの中で、「一无所有」を歌った。

1989年4月、ロックスタイルになってからの1stアルバム『新長征路上的揺滾』が発売となった。

1990年3月からは、「新長征路上的揺滾」ツアーを開始した。四川省成都市のコンサート後、5か所のコンサートを中止にさせられたが、1993年の夏まで、2年ほど全国を回り、大陸中が崔健に注目するようになった。また同年には、「一无所有」が人民日報中国国際文化交流中心主催のイベントで新時期十年金曲賞を獲得したほか、優秀歌手賞に輝いた。

中国ロックの第一人者として

1991年2月、2ndアルバム『解決』を発売した。

1992年、『解決』に収録の「快让我在这雪地山撒点儿野」のMVが、MTVの「VIDEO MUSIC AWARD 1991 MTV ASIAVIEWERS CHOICE AWARD CUI JIAN "WILD IN THE SHOW」(「最も観衆に好まれたアジア歌手賞」)に輝いた。8月には、日本の神奈川県横須賀市で行なわれた「ぴあ20周年記念コンサート」に参加した。同年、ライブ・アルバム『寛容演唱会』が発売となったが、崔健が認めたアルバムではなかったため、訴訟問題に発展した。

1993年から紅旗下的蛋楽隊を率いて活動するようになる。同年、映画『北京雑種』(『北京バスターズ』)に出演した。また、映画音楽を手がけた。

1994年8月、3rdアルバム『紅旗下的蛋』が世界で発売となった。

1995年、北京爵士楽単位楽隊のライブに参加した。8月には、アメリカでツアーを行ない、サンフランシスコ・ニューヨーク・ボストンなどを巡演した。アメリカソロツアーは、中国人アーティストとして初めてで、計6回ほどライブを行なった。9月、日本の東京と大阪でライブを行なった。

1997年、子曰楽隊のアルバムプロデュースを手がけた。

1998年5月、4thアルバム『無能的力量』を発売する。

2000年3月には、北京普涞文化芸術有限公司とマネジメント契約を交わした。12月2日には、オランダ駐中大使からクラウス王賞を受賞した。

2001年1月16日から18日には、香港で現代音楽舞劇『給你一点紅色』を公演し、成功を収めた。

2002年8月から、真唱運動の開始を宣言した。8月、雲南省麗江市で行なわれた麗江雪山音楽節のアートディレクターを務めるなど、裏方としての活動も始めた。

2004年10月、国連和平音楽大賞を獲得し、中国のロックミュージシャンとして貴重な国際的な賞を獲得した。

2005年3月、5thアルバム『給你一点顔色』が発売となった。7月、崔健が過去に発表した曲をカバーしたトリビュート・アルバム『誰是崔健!?』が発売となった。9月24日、首都体育館陽光下的夢コンサートを開いた。10年以上の歳月を経て、崔健がようやく北京市で開いたコンサートで、中国ロックに対する政治的な解釈が変化したということを如実に示すものである。崔健の今までの行動が政府によって認められた結果である。

2006年1月10日、初の短編映画作品『修復処女膜時代』がネット配信された。

2009年10月24日から「新長征路上的揺滾V21」コンサートツアーを開始した。

2010年5月7日、日本の埼玉県川口市のリリアメインホールで15年振りの来日コンサートを行なった。12月31日と1月1日、北京工人体育館で2DAYSのコンサートを開いた。

2013年5月8日、3D映画『超越那一天』が公開となった。

2014年10月17日、初の映画監督を務めた『藍色骨頭』が全国公開された。この映画は2013年11月16日、第8回ローマ国際映画フェスティバルで特別推薦賞を獲得したほか、2014年4月9日の中国第五届督演協会年度頒奨礼で評議委員会特別賞を受賞した。また、8月18日の第10届韓国堤川国際音楽電節で電影節大賞および評議委員会特別賞を受賞するなど、海外の映画祭で好評を博した。

2015年12月25日、6thアルバム『光凍』が発売となった。

2016年9月30日から「滾動三十演唱会」コンサートツアーを開始した。

2020年6月18日に行なわれたネットライブでは、1122万人が生配信によるライブを視聴し、中国のネットライブの記録を作るなど、崔健の健在ぶりを中国全土に見せ付けた。

評価

崔健は、中国ロックを初めて公の場で演奏し、国内で初めてロックのソロアルバムを発売した人物である。1stアルバムを発売してから10年以上が経過した今でも、未だに人気が衰えない、中国ロックの顔でもある。彼の人気が未だに衰えない理由は、各アルバム毎にスタイルが変化していること、意味深な歌詞でいつも話題に上がることなどがある。歌詞の解釈は人それぞれであるが、けっして西洋諸国でイメージされているような反体制ロッカーではないと思われる。彼が1stアルバムに収録した「新长征路上的摇滚」は、共産党の長征を茶化したとして、政府の眼に止まることとなってしまったが、現在の中国を愛しているからこそ、その偉大な英雄達の長征を自分流にアレンジして歌ったのである。近年、北京市でも大々的にロックコンサートが開かれるようになったが、彼の大型ソロコンサートは1991年以来開かれず、2005年になり、ようやく開くことができた。彼の動向が中国ロックに及ぼす影響はいまだに大きいものである。

ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ロックスタイルになる前

ロックスタイルに変化後

ライブ・アルバム

シングル

ベスト・アルバム

リミックス・アルバム

アルバム・ボックス

映像作品

トリビュート・アルバム

スプリット・アルバム

Bootleg

ソロ発表曲 

テンプレート:Solo List 75

参加アルバム 

テンプレート:Participation List 100

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考
映画北京雑種1993制作脇役、演奏シーンが収録中国では公開されず香港で公開▼VCDあり
映画我的兄弟姐妹2001脇役▼映画DVDあり
CD中国語ジャーナル 2001年1月号2000/12インタビュー
CD中国語ジャーナル 2001年2月号2001/1インタビュー・続
テレビ番組中国新音楽的N個瞬間2005/9語り▼DVDあり
DVDFAR DVD2007/4/21インタビューヒップホップについて語っている
DVDBEIJING BUBBLES - How the story continued2008/8/23インタビュー
ドキュメンタリーフィルム中国原創音楽20年2011インタビュー▼DVD
映画超越那一天2013/5/8主演3D映画

主要なライブ・コンサート

外部リンク